
聖 句「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」 (ローマ6:23)
説教題 「新しい命に生きるー救いの基礎⑥」
聖 書 ローマ人への手紙6章23節
説教者 栗本高仁師
神様は良い世界を造り、人にその世界の管理を任せました。しかし、人は自己中心という「罪」ゆえに神様から離れ、世界は壊れていきます。しかし、神様はその世界を回復をさせるために、救い主イエス・キリストを天から遣わしてくださいました。そこでイエス様は、世界が壊れる原因となった「罪」を取り扱ってくださいます。
1)罪の赦しを得る
まずイエス様は私たちの上に乗しかかっている罪の重荷を下ろしてくださいます。どのようにしてでしょうか。今日の箇所には「罪の報酬は死です」と書かれています(23節前半)。少し独特の表現ですが、私たちはこの負っている罪のゆえに、死という運命から逃れることができない存在だということです。つまり、死を通ることなしにはこの重荷は下ろすことができないのです。それは、単なる肉体の死ということではありません。「第二の死」という表現があるように、それは永遠の死を意味するのです(黙示録20:14)。それほどまでに「罪の重荷」は重たいものなのです。
何とイエス様は、私たち一人ひとりのこの「罪の重荷」をご自身の肩にのせてくださったのです。それが十字架の出来事です。イエス様は「自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」(1ペテロ2:24)、文字通り「死んで」くださったのです。これが私たちの重荷を下ろす方法であったのです。この一人の方の行為のゆえに、私たちは罪が赦され、正しいものと認められるのです(ローマ5:18-19)。
2)罪の奴隷からの解放
しかし、イエス様は、ただ私たちの罪を赦してくださっただけではありません。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、…私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」(ローマ6:6)と書かれています。罪というのは恐ろしいもので、「私が自分でしたくないことをして」しまうのです(ローマ7:20)。まるでそれは、私たちが暴走列車に乗せられているような状態です。しかし、イエス様の十字架は、その奴隷状態から解放してくださるのです。
それゆえに、私たちには他の選択肢、可能性が与えられます。「私たちが罪を離れ、義のために生きる」ことができるのです(1ペテロ2:24)。つまり、神様の願っておられる幸いな道を進むことができるのです。まるでそれは新しく生まれた変わったような状態です。このようにイエス様は、私たちの罪を赦すだけでなく、罪に支配されることのない新しい命に生きる道を与えてくださったのです。
3)永遠のいのち(復活のいのち)
この新しい命に生きる道は、永遠に続くものです。それゆえに、「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(23節)と書かれているのです。私たちの肉体はいつか朽ち果て、必ず死を経験しなければなりません。しかし、この新しい命は、そこで終わるものではありません。永遠に続くものです。
なぜそのように言えるのでしょうか。イエス様が十字架で死なれた後には続きがあります。イエス様は、三日目に「死者の中からよみがえられた」のです(ローマ6:4)。もしこの復活がなければ、キリスト教の救いは虚しいものに終わってしまいます。なぜなら、死で終わってしまうからです。しかし、2000年前のあの十字架の出来事の後、イエス様は復活し、今も生きておられるのです。このようにして、死に打ち勝ってくださいました。
このイエス様の復活の出来事のゆえに、私たちも一度死を経験しますが、そこで終わることなく、復活できることが保証されているのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)との宣言通りです。
このように、私たちには、罪の赦し、罪の奴隷からの解放、復活という新しい命に生きる道が与えられました。それを実現したのは、イエス様の十字架と復活のわざです。このイエス様に私たちの全人生をたくすとき、この命を経験することができるのです。