
聖 句「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ4:43)
説教題 「イエスの働きの核心」
聖 書 ルカの福音書4章31~44節
説教者 栗本高仁師
イエスはナザレでメシアとしての使命を明らかにされました。そして、いよいよナザレからカペナウムへと移られて、その働きが具体的に進められていきます。
1)会堂での解放のわざ
イエスはナザレの時と同じように、ユダヤ人が安息日に集まる会堂で、「人々を教えておられ」ました(31節)。その教えは、人々を驚かすものでした(32節)。もちろん、彼らは律法学者やパリサイ人たちからも色々な教えを聞いてきたことでしょう。しかし、イエスの教えは彼らの教えとは異なっていて、権威があったのです。そのような中で、会堂の中に「汚れた悪霊につかれた人がい」て、大きな叫び声が聞こえます(33-34節)。周囲の人々は、このような悪霊につかれた人はここにいるべきではないと考えたことでしょう。しかし、「イエスは彼を叱って『黙れ。この人から出て行け』と言われ」ます(35a節)。すると、この人は投げ倒されますが、悪霊は「何の害も与えることなくその人から出て行った」のです(35b節)。
人々はこの権威と力に驚きます。イエス様は、まさにナザレの会堂でお話された通りに、捕らわれた者を解放してくださったのです。悪霊につかれた彼の居場所を回復してくださったのです。私たちも、イエス様のことばには、権威と力があることを覚えたいのです。
2)あらゆる場所で、あらゆる人を癒す
その後「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られ」ます(38節a)。後にイエス様の弟子の一人となり、ペテロと呼ばれるようになる人の家です。すると、そこにいたのは「ひどい熱で苦しでい」るシモンの姑でした(38節b)。人々の求めに応じて、イエスは「枕元に立って熱を叱りつけ」ます(39節)。イエスは悪霊に対してと同じように「熱を叱りつけ」るのです。イエスは単に病気を癒す医者ではありません。まさに私たちを束縛するあらゆるものを解放してくださるお方なのです。
さらに、夕方になると「様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来」ました(40a節)。ユダヤでは日没から次の日没までが1日でありました。おそらく彼らは安息日が終わるのを待っていたのでしょう。イエス様のもとに、人々が押し寄せてきます。私たちがイエス様のような力を持っているなら、一気にことばを使って人々を癒したいと思ってしまうかもしれません。しかし、ここでイエスは「一人ひとりに手を置いて癒された」のです(40b節)。イエス様は一人ひとりと丁寧に向き合いながら、解放のわざをなさいます。
多くの悪霊につかれた人々の癒しもなされます。その時、悪霊は「あなたこそ神の子です」と言い、イエスがキリスト(=メシア)であることを叫びます(41節)。イエスはあらゆる場所で、メシアの働きをなされたのです。
3)宣教の核心
イエスは、次の日の「朝になって…寂しいところに出て行かれ」ました(42a節)。おそらく神との交わりを持つためであったでしょう。そのようなイエスを人々は放ってはおきません。イエスがどこか違う町に行ってしまうのではないかと心配した彼らはイエスを「引き止めておこうとし」ます(42b節)。それでもイエス様は「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(43節)と言い、イエスの宣教の働きを拡大していったのです(44節)。
ここで私たちが覚えたいことは、このカペナウムの町で行った宣教の働きは、ほぼ悪霊の癒しと病の癒しに終始していたということです。「貧しい人に良い知らせを伝える」とは、単に福音を教えることだけではなく、実際に福音をもたらすことであったのです。私たちは宣教ということを聖書の教えを語ることだけと考えるならば、イエスの宣教の働きの核心に迫ることはできないのです。
私たちには癒しの力はないかもしれません。しかし、あらゆるところでグループの外にはじき出された人々がおられます。私たちはそのことに目を留めて、その方に寄り添い、イエス様の愛をあらわすことができるのではないでしょうか。まさに、それはイエス様の宣教の働きなのです。