
聖 句「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」(ルカ5:10)
説教題 「イエスの働きへの招き」
聖 書 ルカの福音書5章1~11節
説教者 栗本高仁師
イエスはメシアとしての宣教の働きを始められ、あらゆる町々へと遣わされました(4:43-44)。しかし、イエスは一人だけでその働きをされようとはされませんでした。
1)イエスの手伝いをする船乗り
イエスのことばには権威があり、人々を驚かせていました。そのため、多くの人々はイエスの教えを聞こうとして、彼の元にやって来ました(1節)。イエスは多くの人々に向かって語るために、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に行きます。ちょうどそこに舟が二艘あるのを見て、そのうちの一つであるシモンの舟に乗って、陸から少し漕ぎ出すように頼みます(2-3節)。おそらく、多くの人々に声を届けるためであったことでしょう。そして、舟の上から教え始められました(3b節)。イエスはここまで会堂で語ってこられましたが、求めるものたちに惜しみなく神のことばを教えられたのです。その時に、イエスは漁師たちの助けを得たのです。
このように、イエス様はご自身の働きをするために、今も「陸から少し漕ぎ出してくれないか」と私たちに助けを求めておられます。一見、関係のない仕事のように思うかもしれませんが、実はあらゆる人々の助けをイエス様は求めておられるのではないでしょうか。イエス様の働きに無関係なものはいないのです。
2)驚くべき経験へと
群衆への話を終えられたとき、イエスはシモンに対して「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」(4節)と言われます。イエスは陸に戻ろうとは言われず、もっと深く進みなさいというのです。これはプロの漁師であるシモンにとっては少し馬鹿げたことでした。なぜなら、彼らは一晩中働きましたが、魚一匹も捕れなかったからです。イエスが来る前、彼らは網を洗っていましたが(2節)、全く浮かない顔で洗っていたことでしょう。それにもかかわらず、イエスは網を下ろしなさいと言われるのです。普通であるならば、彼らはそのように言われることに従わなかったことでしょう。しかし、シモンは「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」(5節)と答えます。一見、彼はイエスのことばに信頼しているように見えるかもしれません。しかし、この後の反応から考えると、おそらく彼の信頼は十分なものではなかったでしょう。自らの姑をことばで癒してくださった「先生」の言うことですから、やってみましょうか、という程度であったでしょう。
しかし、結果はどうであったでしょうか。何と他の仲間の手も借りなければならないほどに、「おびただしい数の魚が入り、…魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった」のです(6-7節)。私たちの信頼はいつも不十分です。しかし、そのような私たちの想像を超えた出来事をイエスは経験させてくださるのではないでしょうか。
3)罪人である私たちを招くイエス
プロの漁師であるシモン、また他の漁師たちにとっても、この出来事はあり得ないことでした。そのときに、ようやくイエスが何者であるかということに気づくのです。そして、彼は「イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(8節)。イエスというお方は、ただの「先生」(5節)ではなく、「主」であることがわかったのです。それゆえに、漁師である自分なんて、この方に近づくことはできないというのです。それは、シナイ山で神の臨在を垣間見たあの民たちと同じような感覚であったことでしょう(出エジプト20:18-19)。
しかし、イエスはシモン・ペテロに言われます「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです」(10節)と。「人間をとる」とは、まさに「貧しい人に良い知らせを伝え」、あらゆる人々の解放をもたらすことです。イエス様は、ご自身とは全くかけ離れた罪人を、ご自身の働きへと招かれるのです。
「私なんてイエス様の働きをする資格はない」と私たちは思っていることがあるかもしれません。しかし、そのような「罪人」とイエス様は一緒に宣教の働きをしたいと願い、「一緒に深みに漕ぎ出そう」と私たちを招いてくださるのです。彼らはこの方に従っていきました(11節)。私たちはどのように応答するでしょうか。