
聖 句「イエスは手を伸ばして彼にさわり『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」(ルカ5:13)
説教題 「これがわたしの心だ」
聖 書 ルカの福音書5章12~16節
説教者 栗本高仁師
イエスは貧しい人に良い知らせを伝えるために、働きを進められます。
1)イエスにはできる!という信仰
イエスがある町におられた時、そこに「全身ツァラアトに冒された人がい」ました(12節)。これは、皮膚に関する病であったことがわかります(レビ記13章)。かつて「らい病(今ではハンセン病)」と訳されましたが、「ツァラアト」が具体的にどのようなものであったかは定かではなく、少なくとも現代の病と同一のものではありません。ただ、なかなか癒される者がいなかったことは確かでした(4:27参照)。
しかし、ただ治りにくい病というだけではありません。イスラエルの民にとって、ツァラアトと診断された者は、宗教的に汚れた存在とされました。それゆえに、社会的に他者との関わりがゆるされなかったのです(レビ記13:45-46)。まさに、グループの外に追いやられ、肉体的・身体的な苦しみを負っていたのです。
そのような状況にあった彼でしたが、イエスが町に来ていることを耳にしたのでしょう。彼はイエスを見つけ、ひれ伏してお願いするのです。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(12節)と。ここに彼の信仰を見ることができます。彼はイエスが望んでくだされば「自らをきよめることができる」と信じていたのです。私たちも「あなたはおできになる」という信仰をいただきたいのです。
2)あらゆる傷を癒やされるイエス
イエスは彼のその信仰に呼応するかのように「わたしの心だ。きよくなれ」と言います(13節後半)。すると「すぐにツァラアトは消え」ました。イエスは彼のツァラアトがきよめられ、癒されることを願われたのでした。しかし、ただ身体的な癒しだけを願われたのではありません。これまで、彼は誰に触れることも、触れられることもありませんでした。ツァラアトの人に触れることはいわばタブーなのです。ところが、イエスはそのタブーをおかして「手を伸ばして彼にさわ」られたのです(13節前半)。彼はイエスがこのツァラアトをきよめることができるとは考えていたでしょうが、まさか癒すために「ふれてくださる」とは予想していなかったのではないでしょうか。イエス様はこのように彼の深いところにある魂の傷を癒すために、タブーをおかしてまでも、あえて彼にふれてくださったのです。まさに、これが「イエスのお心」なのです。
病院に行っても、薬を飲んでも癒されることができない部分を私たちも持っているのではないでしょうか。しかし、イエスはそのような私たちに近づき、深いところにある傷を癒してくださるお方なのです。
3)イエスが代わりに
イエスはその後、彼にこのように命じます「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい」(14節)と。祭司に見せるとは、彼が本当に癒やされていることを確認してもらって、共同体の中に回復できるようにするためでした。イエスは彼を回復させてくださったのです。
一方でイエス様はここで「誰にも話してはいけない」と言われたのは、どうしてでしょうか。イエスの力が世に広まって多くの人々との関わりが増えれば、福音をより届けられるようになる、と私たちは思います。実際に、「イエスのうわさはますます広がり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒してもらうために集まって来た」のでした(15節)。ところが、この後「イエスご自身は寂しいところ(=荒野)に退」かれたのです(16節)。
私たちはこのストーリーに大きな逆転を見ます。今までグループの外にいた彼が共同体の中へと入れられ、反対にイエスは共同体の外に追いやられたのです。これは、この後のイエスの生涯を象徴しています。イエスは、本当の意味で私たちを解放するために、私たちの代わりに捕らわれの身となってくださったのです。まさに、それが十字架の出来事です。イエス様は、このツァラアトに冒された人だけでなく、私たち一人ひとりを助けるために、十字架という荒野へと進まれたのです。自らを犠牲にしてまでも私たちを救いたい、それこそが「イエスのお心」であることを深く覚えさせていただきましょう。