
金言
「こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ」(申命記34章5節)
説教題「人生の最期を迎えて」
聖 書 申命記34章1~8
説教者 井上賛子師
モーセはエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を解放し、神の律法を授け、約束の地へと導いた偉大な指導者。申命記は40年にも及ぶ荒野の旅を終え、約束の地に入ろうとするイスラエルの民にモーセが語った「遺言」である。
1)モーセの最期
モーセは神様に導かれ、ネボ山のピスガの頂に登り、約束の地全体を見渡した。神様は彼に「わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」(申命記34:4)と告げられる。モーセは年をとり弱っていき、死んだのではない。7節には「モーセは死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とある。神様は御心によって、モーセの人生をこのモアブの地で、まだ目もかすまず、気力もうせていないままで終わらせた。それはどうしてだろうか。
2)なぜ約束の地に入れなかったのか
イスラエルの民は荒野を旅している内に、水がないことで不満を抱き、モーセたちに不平を言う。(民数記20:2~5)神様はモーセに岩に命じて水を出すように言われた。しかし、モーセは神様の言われた通りにせず、杖で岩を二度叩き、水を出した。(民数記20;11)神様の言われた通りにせず、モーセは不従順であった。神様はモーセに「わたしが聖であることを現さなかった」(民数記20:12)と言われ、「彼らに与えた地に導き入れることはできない」と告げられたのである。
3)必死に願ったモーセ
申命記3章23節以下は、モーセが約束の地に渡らせて欲しいと懇願したことが記されている。その願いに対し、神様はその願いを聞き入れられず、ヨシュアを後継者にお選びになった。モーセの約束の地に入りたいという祈りは聞かれなかった。パウロも自分の病が癒されるように祈ったが、聞かれなかった。Ⅱコリント12章8~9節のリビングバイブル訳では、パウロは「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか」と神様から告げられる。病は癒されなかったが、パウロは神様が共におられる恵みを深く体験した。人がこの世で感じる苦しみは、「思い通りには生きていけない」ということではないでないか。人は様々な現実を生きていかねばならないが、何があろうと神様の御手の内にある。思い通りにならない現実は、これから先の人生でも必ず起ってくるが、「しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」という主のお言葉に平安をいただきたい。
4)約束の地を目の前にして
モーセは人生の最後に、ピスガと呼ばれるネボ山の山頂に登り、そこから約束の地を見渡した。34章1節に「主は彼に、次の全地方をお見せになった。」とある。神様がモーセに約束の地をお見せになったのは、彼の人生がここで終わるとしても、次の世代へと神様の働きは受け継がれていくことを示すためであった。私はモーセの死をどう受けとめたらよいのかと長らく心にあった。たった一度の罪で約束の地に入ることが出来なかったモーセの思いはどうであったのだろうかと。先月、一人の姉妹の死を通して、この箇所が示され黙想していた。姉妹は突然に最期の時を、死を迎えることとなったが、苦しみの中で平安が与えられていた。それは死を受容しなければならないということだったが、このような最期となって悔しいという思いではなくて、すべてを神様にゆだねることにより与えられた平安、そして天国への希望に満たされていた。ある先生は、モーセの最期を「満ち足りた死」と言われた。モーセは最期の時、約束の地をその目で見渡して確認し、自分の務めを次の世代へと委ねて、深い慰めと喜びが与えられたのではないか。罪や過ちを犯し、罪の結果を負っている私たちの歩みであったとしても、全ては神様の恵みの御手にあり、思い通りにならない現実を受け入れることができるばかりか、満ち足りた心が与えられる。