
聖 句「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)
説教題 「遅すぎることはない」
聖 書 ルカの福音書23章32~43節
説教者 栗本高仁師
大逆転というものは、いつ起こるかわかりません。人間的に見れば、もう遅すぎると思える場面で、まさに大逆転を経験した一人の「犯罪人」が出てきます。
1)絶望の中で…
イエス様が十字架につけられた時のことです。そこには「ほかにも二人の犯罪人」がいました(32節)。彼らは強盗の罪で捕まり、当時最も残酷な「十字架刑」に処されることになりました。彼らはこの先、死を待つほかないような状況であったのです。
しかし、彼らはこの十字架上で転機を迎えます。あの救い主イエスと出会い、話すことができたのです。しかし、この二人は非常に対照的でした。一人はイエスをののしります(39節)。これは、このとき集まっていたあらゆる人々の声でした(35-37節)。本当に救い主であるならば十字架に架けられているはずはないと、人々は思っていたのです。
ところが、もう一人の犯罪人はののしる犯罪人をたしなめて「この方は、悪いことを何もしていない」(41節)と言い、イエスが正しい方であることを認めたのです。そして、「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と願います(42節)。彼は、イエスが特別な方で、自らを最終的に救い出してくれる方であると認めたのです。
2)私たちの功績によらず
イエスと出会った結果、二人の犯罪人はどうなったでしょうか。イエスをののしった犯罪人の状況は変わりませんでした。しかし、イエスを救い主と認めた犯罪人は驚くべきことばを言われるのです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(43節)と。彼はやがての日に思い起こしてほしいと考えましたが、今ここで、すでに救いを受けていると宣言されたのです。
こうして彼は死を待つほかなかった状況から大逆転を経験しましたが、一体どこに彼の救われる根拠があったのでしょうか。過去を振り返っても彼の良い行いはどこにも見当たりません。しかも、最初は彼も「イエスをののしっ」ていたので(マルコ15:32)、十字架に架けられている中でイエスを信じたのでした。彼は神様のことも、イエスのことも無知に近かったことでしょう。
それではイエスは彼のどこを見て、救いを宣言したのでしょうか。イエスが見たのは、自らの罪と無力さを認め、ただイエスにすがるしかないという「信仰」のみです。ここに、私たちにとっての喜びの知らせがあるのです。神が見られるのは、過去の実績でも、信仰の長さでもありません。イエスをどれほど信頼するかという、今の私の心を見てくださるのです。それゆえに、イエスは今ここで私たちを救う力があり、救いに遅すぎることはないのです。
3)イエスの祈りのゆえに
それでは、この救われた犯罪人は、一体どのようにしてイエス様を信じることができたのでしょうか。
彼を変えたのはイエスの「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」という祈りです(34節)。非常に驚くべきことばです。なぜなら、イエスは何か具体的な犯罪で十字架に架けられたのではなく、無実の罪を帰せられたからです。この裁判の最終決定権を持っていたローマ総督ピラトは、三度もイエスの罪は見つからなかったと言いました(23:14,20,22)。しかし、民衆の「十字架につけろ」という声に負け、ピラトはイエスを十字架につけたのです。そして、イエスは十字架上で多くの「ののしりの声」を受け続けました。しかし、イエスは、ののしられてもののしり返さず、むしろ彼らの罪の赦しを願ったのです。この祈りが彼を変えたのです。
この祈りは私たち一人ひとりのために祈られたものでもあります。私がまだイエス様を知らなかったときから、私のために祈り、愛してくださいました。そして、十字架上で、すべての人の罪を背負い、その罰をお受けくださったのです。もう遅すぎると感じることがそれぞれあるかもしれません。しかし、そうではありません。この犯罪人のように、自分の無力さを認めてイエス様に頼りきるとき、ここで大逆転を経験するのです。