
聖 句「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るためにー」(ルカ5:24)
説教題 「罪を赦すことができる方」
聖 書 ルカの福音書5章17~26節
説教者 栗本高仁師
ここまで、イエス様は「教え」と「癒し」において権威があることを明らかにされてきました。しかし、さらに大いなる権威を持っておられることを示されます。
1)何とかしてイエスのもとへ
ある日、イエスがいつものように教えておられると、聖書の教えに関しての専門家「パリサイ人たちと律法の教師たち」が座っていました(17節)。イエスの教えに権威があることを聞きつけ、イスラエル中から来ていました。おそらく彼らはこのイエスの教えが伝統的に正しいものかを調べに来たのでしょう。
さらに、いつものように「主の御力によって」癒しもなされていました。その中で、ある人が連れて来られます。それは「中風」という病を患い、寝たきりになっていた人でした(18節)。男たち(おそらく友人たち)は、癒してもらうために彼をイエスの目の前に置こうとします。しかし、すでに多くの人がイエスを取り囲んでいたため、家の中に運び込むことはできません。それでも彼らは諦めません。屋上に上り、何と瓦をはがして、寝床ごと「イエスの前につり降ろした」のです(19節)。そのところにいた人々は驚き、非常識な者たちとして彼らのことを見たかもしれません。ところが、イエスは「彼らの信仰を見」られます(20節前半)。グループの外に追いやられた人を何とかしたいという思いは、イエスの心と重なります。その思いと、イエスなら何とかしてくれるという信仰をイエスは見てくださったのです。私たちも、その信仰をともに抱きつつ、歩もうではないでしょうか。
2)神の前に受け入れられている!?
イエスは彼らの信仰を見て、何をしてくださったでしょうか。彼らは(また私たち読書も)すぐさまイエスが癒してくださることを期待したでしょう。しかし、イエスは癒すのではなく「友よ、あなたの罪は赦された」と言われるのです(20節)。罪とは何でしょうか。それは現代が考えるような法律違反、倫理・道徳的な違反というものではありません。むしろ、彼らの神との関係に関わるものでした。罪人は「神に受け入れられない存在」と見なされていたのです。ところで、私たちクリスチャンは「すべての人は罪人」と考えますが、当時のユダヤ社会においてはそうではありません。そこには「律法を守っているか否か」という明確な基準がありました。罪人とは「律法を守っていない人」、その中には「やむを得ない事情で守ることができない人」も含まれていたのです。まさに、この中風の人は、病気のゆえに「罪人=神に受け入れられていない者」と見なされていたのです。
しかし、イエスはそのような彼に対して「あなたは神に受け入れられている」と宣言されるのです。ここに大きな恵みがあります。彼らはこの人の病気が癒やされてから、神の祝福を受けると思っていたことでしょう。しかし、中風の人はその状態のまま、罪の赦しの宣言という神の祝福を受けることができたのです。信仰を持って主の前に出る時、私たちもそのままの姿で、神に受け入れられるのです。
3)イエスの権威が明らかに
しかし、このときあの専門家たちがイエスの言葉に反応します。「この人に一体何の権威があって、罪の赦しを告げているのか。彼は神を冒涜している」と心の中でつぶやきます(21節)。イエスは、彼らの心を見抜きます。そして、「罪の赦し」と「病の癒し」のどちらが易しいかと問います(微妙に難しい問い)。本当の意味では、神にしかできない「罪の赦し」の方が難しいことですが、それが真実であるかを証明するという点に関しては「病の癒し」の方が難しいことです。そのため、イエスは「罪の赦し」の権威を持っていることを証明するために、彼を癒そうとします(24節)。するとただちに彼は癒やされるのです(25節)。
こうして「病を癒すことができる方は、罪を赦すことができるお方である」ことが証明されたのです。イエス様はその権威をお持ちの方です。それゆえに、私たちははっきりと告白できます。「イエス様を通して、罪の赦しをいただき、神様に受け入れていただける」と。私たちもその信仰を持って、イエス様を証する存在とさせていただきましょう。