
聖 句「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ17:15-16)
説教題 「イエス様、ありがとう」
聖 書 ルカの福音書17章11〜19節
説教者 栗本高仁師
私たちは何か願っていることが叶った経験をすることがあります。聖書にも同じような経験をした人たちの話が出てきます。今日は、その中で、ある重い病気にかかっていた10人の人たちの話が出てきます。
1)私たちも叫ぶことができる
この重い病気の名前は「ツァラアト」というものです。皮膚に関する病ですが、詳しいことはわかっていません。ある日、そのツァラアトにかかっていた10人の人たちがいた村に、イエス様が来るというニュースが入りました。彼らは、イエス様がこれまでに多くの病気を治しているということを聞いていたのです。もし私たちが同じような状況であればどうするでしょうか。当然「イエス様なら治してくれるかもしれない」と思って、イエス様に助けを求めることでしょう。彼らも同じように思ったのです。そして、彼らは大きな声で叫びます。「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」(13節)
私たちは人生の中で様々な困難に直面することがあるでしょう。しかし、このツァアラトに冒された10人の人たちと同じように、私たちも叫び声を上げることができるのです。なぜなら、私たちの叫びを聞き、受け止めてくださるお方がおられるからです。
2)一歩踏み出す信仰
イエス様は彼らが叫んでいるのを見られます。そして、彼らに「ここから出て行って、自分のからだを祭司に見せなさい」(14節)と言われます。祭司というのは、この病気を治す人ではなく、治っていることを確認する人たちのことでした。
さて、この10人の人たちはどうしたでしょうか。まだ病気が治っていないにもかかわらず、祭司のところに行ってどうするのだろうか、と考えたかもしれません。彼らは不思議に思ったことでしょう。しかし、彼らは「イエス様の言われた通りにしよう」と決めて、その町を出て行ったのです。するとどうでしょうか。何と、彼らは「行く途中できよめられた」(14節)のです。
彼らには共通した信仰が見られます。それは、不確かな中で一歩を踏み出すという信仰です。この時イエス様は、何か癒しにつながりそうなわざ(手をおいて祈る、川へ行って洗いなさいなど)をしたのではなく、ただ「行きなさい」と言われただけです。彼らには何の確証も与えられませんでしたが、イエス様のことばに信頼して、そこから出て行ったのです。私たちは不確かな中で、イエス様のことばにどのように応答するでしょうか
3)感謝する信仰
ところが、話はここで終わりません。10人とも癒されたのですが、その後たった一人だけ違う行動を取るのです。彼は自分の病気が癒されたことがわかると、喜びを爆発させ、大声で神様を賛美しながら、イエス様のもとに引き返してきたのです(15節)。そして、イエス様に感謝を伝えたのです(16節)。他の9人はどこへ行ってしまったのでしょうか。おそらく喜びのあまりイエス様のことは頭の片隅に追いやられたのでしょう。9人は「自分が癒されたこと」に気を取られてしまいましたが、この戻ってきた一人は癒してくださったイエス様のことを強く思っていたのです。
私たちにも願いが叶えられるという経験があるでしょう。もちろん、彼らのように重い病気が癒されたというほどの大きな出来事ではないかもしれません。しかし、日々の小さな事柄の中で喜ばしい出来事があると思います。私たちはそのような出来事をどのように受けとめるでしょうか。単に偶然に起こったことではなく、イエス様がしてくださったことであると受けとめたいのです。
私たちの必要を最もよくご存知のイエス様が、この1週間も導いてくださいます。その中で一つ一つの恵みを数え、イエス様に感謝するお互いとならせていただきましょう。