
聖 句「そして彼らに言われた『人の子は安息日の主です』」(ルカ6:5)
説教題 「安息日の主であるイエス」
聖 書 ルカの福音書6章1~11節
説教者 栗本高仁師
私たちは、手段と目的を混同し、時に逆転させてしまうことがあります。まさに、パリサイ人たちや律法学者たちがそうでした。
1)飢えを満たすイエス様
ある安息日、イエス様一行が麦畑の間を歩いていたとき、弟子たちが穂を摘んで、手でもみながら食べていました(1節)。その行動を見ていたのがパリサイ人たちです(2節)。彼らが厳格に守っていた律法の中に、安息日(週に1日の休み)に関する教えがありました。そのため、彼らは人々が安息日違反をしていないか見張っていたのです(まるで安息日警察のように!)。
弟子たちの行動を見た彼らは「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」と問い詰めます(2節)。弟子たちの行動の問題は、人の麦畑から勝手に食べたことではありません。安息日にしてはならないとされていた収穫と脱穀のゆえに、咎められたのです。
それに対してイエス様は彼らがよく知っていたダビデの話をします(3-4節;1サムエル記21:1-6)。それは、後に王となるダビデが、律法で祭司しか食べることが許されていなかった「臨在のパン」を食べ、部下たちにも与えた、という話です。ここでイエス様は、たとえ律法に書かれていることでも、それ以上に優先されることがある、ということを教えています。
実は、ダビデと部下が置かれた状況も、今の弟子たちが置かれた状況も共通点がありました。それは、飢えに苦しんでいたということです。ダビデたちはサウル王に追われていて食べ物を簡単に手に入れることはできませんでした。弟子たちは貧しいゆえに、他人の麦畑から食べていたのです。イエス様は律法というルールが守られる以上に、人々の必要が満たされることが大切だと言われたのです。
2)右手を癒すイエス様
さて、別の安息日に、イエス様が会堂で教えておられる時、右手の萎えた人がいました(6節)。またもや、教えの専門家たちが登場し、イエスがここでどう行動するかをじっと見つめます(7節)。それは何とかしてイエスを訴えるためでした。ここまで、罪を赦しを宣言すること、罪人と一緒に食事をすること、断食をしないことなど、明かに伝統的な教えとは違った行動をしていたイエス様でしたが、彼らはその不当性を見出すことはできていませんでした。しかし、ここで彼らにとっての好機が訪れるのです。律法において、いのちにかかわること以外の癒しは許されていませんでした。そのため、いつものようにイエス様が彼を癒せば律法違反で訴えることができると考えたのでした。
イエス様は彼らの考えを見抜いておられました。その上で、イエス様はあえて、この手の萎えた人を、皆が見える真ん中に立たせます(8節)。そして、自分を訴えようとしている者たちに尋ねます。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか」と(9節)。そして、彼を癒すのです(10節)。
ここでもイエス様は、律法を守ること以上に大切なことがあると教えています。それが、善を行うこと、いのちを救うことだということです。確かに、右手が萎えていることは肉体的な命に別状があるわけではないでしょう。しかし、彼は右手が使えないことで様々な苦しみを負っていたのです。なぜなら、公的な場で使用すべきは右手であったが(仕事や挨拶など)、彼は左手を使わざるを得ず、偏見の眼差しを向けられていたからです。そのような彼の右手を癒すことで、彼に安息を与えられたのです。
これらのイエス様の安息日の行動を通して、安息日の本質を私たちに教えておられます。安息日のルールや規則を守ることはあくまで手段であり、その目的は私たちが真の安息に満たされることです。後者こそが、安息日の本質と言えるでしょう。その真の安息を与えるために、「安息日の主」なるイエス様がこの世に来られたのです(5節)。
同時に私たちの信仰が問い直されます。パリサイ人たちの問題は、律法を守ることで神様を愛すると言いながら、目の前で安息を必要とする人々を蔑ろにしていたことです。私たちも同じようなことをしていないでしょうか。神様を愛することは、隣びとを愛することであることを深く覚えたいのです。