聖 句「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」(ルカ15:6)

説教題 「だれ一人も失いたくない 」
聖 書 ルカの福音書15章1~7節
説教者 栗本高仁師

 私たちはそれぞれ自分自身のことをどのように見ているでしょうか。そこには、他者の影響が多分に含まれていると思います。

1)罪人と呼ばれている人たち

 イエス様がある家で食事をしていた時、あるグループの人たちがやって来ます(1節)。それは「取税人」や「罪人」と呼ばれている人たちでした。彼らは、あの有名なイエス様の「話を聞こうとして…近くにやって来た」のです(1節)。すると、異なるグループの人たちがその様子を見て文句を言います(2節)。当時、一緒に食事をすることは、互いに受け入れ合うことの最大のしるしでした。しかし、イエスが食事をしていた人たちは、このユダヤ社会で最も大切にされている律法を守らない者(=取税人や罪人)と見なされていました。それゆえに、律法を厳格に守るグループの人たち(パリサイ人や律法学者)は、イエス様を批判したのでした。
 このように、罪人と呼ばれる人たちは、他のグループの人々との関わりが許されず、社会からいなくなったような存在と見なされていました。その中で彼ら自身も、自分はいなくてもよい存在と考えるようになったのではないでしょうか。私たちも生きている中で、同じように感じることがあるでしょう。このように、私たちは社会全体や他者から自分の価値を推し量ってしまうことがあるのではないでしょうか。

2)かけがえのない存在として探す

 この批判を受けた上でイエス様はあるたとえ話をします(3節)。ある人が「羊を百匹持っていて、そのうちの一匹」がいなくなります(4節前半)。この羊飼いはその後どのような行動をとるかという話です。イエス様は「その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで探し歩かないでしょうか」(4節後半)と言われます。ユダヤ社会において羊は非常に大切な財産でした。そのため、単なる1/100ではなく、大切な一匹だったのです。それゆえに、当然いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くとイエス様は言われるのです。まさに目の前で食事をしている取税人や罪人は、イエス様にとってこの「いなくなった一匹」であり、かけがえのない存在だと言われたかったのです。彼らは自分自身価値がないと思っていたかもしれません。しかし、それは全くの間違いなのです。
 もう一つ興味深いことがあります。それは、いなくなった羊は何も行動していないということです。羊は目があまり良くなく、群れで行動する特徴があります。そのため、とても自力で群れに戻ることはできません。まさに、取税人たちや罪人たちは同じ状況でした。社会から排除された彼らは、自力で戻るすべを持っていません。それゆえに、羊飼いがいなくなった一匹を捜しに行ったように、イエスご自身が彼らを見出してくださったのです。そのために、イエス様はあらゆる人々と食事の席を設けられたのです。
 私たち一人ひとりをも、イエス様はかけがえのない存在として見ておられ、私たちを捜し歩いてくださっています。

    3)大きな喜びがある

     その後、羊飼いは「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ」、家に戻ります(5-6節)。この羊飼いの表情が目に浮かびます。それは、怒りの表情でも、迷惑そうな顔でもありません。喜びに満ちた表情です。彼はこの喜びを一人で留めることはできないため、「友だちや近所の人たちを呼び集め」ます。それほどに、この羊が生きていること、その存在自体が喜びであるのです。まさに、イエス様は目の前にいる一人ひとりの存在を喜んでくださるのです。私たちも同様です。私たちの価値は、私たちが何かできるかでは決まりません。本当の羊飼いであるイエス様のもとに帰り、そこで生きていることをイエス様は喜んでくださるのです。私たちは自分の価値を見誤っていないでしょうか。
     しかし、この喜びは単に小さなところで起こる喜びではありません(7節)。私たちはこの地球上にいる何十億ものうちのたった一人であります。しかし、その私一人がイエス様に見出される時、全世界を治める神様がおられる天で、大きな喜びの祝宴が催されるのです。それほどまでに、イエス様はだれ一人失いたくないと思っておられるのです。そのような目で、イエス様はあなたを見ておられることを覚えさせていただきましょう。