
聖 句「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」 (ルカ6:20)
説教題 「イエスのもたらす祝福」
聖 書 ルカの福音書6章20~26節
説教者 栗本高仁師
イエス様は弟子たちにご自身の働きを継承するために、12使徒を選び、彼らのために教え始められます(6:20-49)。まず、イエス様が弟子たちに向けて語られたことは神の国における祝福とわざわいについてです。
1)世の中とは異なる幸い
最初にイエス様は「〇〇な人は幸いです」という祝福のことばを語ります(20-23節)。私たちも礼拝の最後に祝祷を受けて遣わされていきますが、イエス様の弟子たちも祝福のことばを受けます。しかし、驚くべきは、どのような人が神の祝福を受けるかということです。何とそれは、「貧しい人たち」「飢えている人たち」「泣いている人たち」「憎まれ、排除され、ののしられ、けなされる人たち」だと言うのです(20-22節)。
一般的に考えられるような幸いな人とは正反対の者たちと言えるでしょう。それは当時のユダヤ社会においても同様です。彼らが信じる神の祝福は、目に見える事柄と密接でした。それゆえに、貧しさ、飢え、嘆き、迫害というのは、神の祝福を受けていないことのしるしでもあったのです。
しかし、イエス様ははっきりと、このような人々が幸いな人であり、祝福を受けると宣言されるのです。ここにいた弟子たちは、間違いなく「飢えている人」たちであり(6:1-5)、「迫害されている人」たちでした(5:27-32)。それゆえに、この祝福の宣言はどれほどの慰めであったことでしょうか。
2)イエスが今もたらしつつある祝福
しかし、このような人々が祝福を受けているとなぜ言い切れるのでしょうか。この宣言はただの詭弁でも、いつの日か(たとえば死後において)受けるであろう幸いでもありません。この祝福は「メシアなるイエス」を通して、まさに今もたらされつつある現実なのです。それは、最初の祝福の宣言「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」とわかります。それは、あのナザレでの宣言「貧しい人に良い知らせを伝えるため(イエス様の働きの目的)」とつながっているのです(4:18)。
ここまで見てきたように、貧しい人とは単に経済的に困窮しているというだけではありません。社会的に、宗教的に、グループの外に追いやられていたあらゆる人々のことを指しています。例えば、悪霊につかれていた人、ツァラアトに冒された人、病を罹っていた人、取税人などです。イエス様は、このような人々を癒し、罪を赦し、弟子として招かれたのです。神の祝福からは程遠いと思われていた人々に、神の祝福がもたらされていたのです。それゆえに、イエスはこの逆転の祝福(20-23節)を、はっきりと宣言されるのです。
このように、イエス様は祝福のことばを語ることを通して、実際にイエス様の働きの核心部分を伝えられたのです。私たちもイエス様の働きが何であるかということを、体験的に知るものとさせていただきたいのです。
3)弟子としてどう生きるか
しかし、イエス様は祝福だけでなく、「○○な人は哀れです」というわざわいのことばも語ります。ここでも世が考えるような哀れな人とは正反対の者たちが挙げられます。それは「富んでいる人」「満腹している人」「笑っている人」「ほめられる人」です。彼らは神の祝福を受けていると考えられていました。しかし、イエス様はそうではないと言われます。
これはどういうことでしょうか。私たちも注意深く聞く必要があります。それは、裕福な人、食べる物がある人、称賛を受ける人が、すなわち「哀れだ」ということではないからです。むしろ、弟子たちが、今からのちどう歩むかという問いかけです。もし、私たちが「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」「迫害されている人」を差し置いて、自分だけが富むこと、満ち足りること、笑うこと、称賛されることを望むとするなら「哀れだ」ということなのです。なぜなら、それはイエス様が望まれることとは正反対の道だからです。弟子とされた私たちがイエス様が大切にされることと反対のことをするときに、それはわざわいの道となってしまうのではないでしょうか。
私たちもイエスがもたらされた祝福が何かを深く知り、またそれを他者と分かち合う存在として遣わされてまいりましょう。