聖 句「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」(ルカ6:36)

説教題 「父があわれみ深いように」
聖 書 ルカの福音書6章27~38節
説教者 栗本高仁師

 イエス様は弟子たちに「貧しい者の幸い」を語りました。彼らが飢える時、泣く時、迫害される時、幸いであると語るのです。しかし、そこには彼らを苦しめる者も存在します。イエスの弟子は彼らとどう向き合えば良いのでしょうか。

1)敵を愛する!?

 おそらくここで聞いていた人々は、敵と呼ばれる者を憎んでも良いと考えたことでしょう。しかし、そのように思っている彼らに対して(「これを聞いているあなたがたに」27節)、イエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい」と言われます。敵とは「あなたがたを憎む者/呪う者/侮辱する者」(27-28節)であり、具体的に「頬を打つ者(侮辱的行為)/上着を奪い取る者(あわれみを欠く行為)/奪い取る者」(29-30節)などと続きます。そのような敵に対して、「善を行うこと/祝福すること/祈ること」(27-28節)が命じられるのです。つまり、イエス様はここで「ただ報復しないように」と言っているのではなく、むしろ「善をもって悪に報いるように」(29-30節)と言われるのです。
 どうしてそこまでするのでしょうか。続けてイエス様は自分たちの仲間うちだけを愛したとして「あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか」と言われます(32-34節)。なぜなら、それは「罪びとたちでも同じことをしてい」るからです。つまり、誰でもする普通の行為なのです。しかし、イエス様の弟子は、その普通を一歩を超えるようにと招かれるのです。

2)父とイエスのあわれみ深さを通して、良い世界が広がる

 しかし、敵を愛するとは、単に道徳的に良いことをするようにという招きではありません。
 イエス様の弟子たちがするべきことである以前に、この世界を造られた父なる神様が願っておられることなのです。神様は、ご自分を愛される者だけにあわれみ注がれるのではなく「恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深い」お方です(35節)。神様は自らに背を向ける者を放っておかれるのではなく、自ら近づいてくださり良きものを与えようとしてくださるのです。それが「神のあわれみ深さ」です。まさに、そのあわれみ深さを体現されたのが、イエス様ご自身です。あらゆる垣根・境界線を超えて、イエス様はご自身の敵も含めてすべての人々を愛されたのです。そのように、今までの普通から一歩進み、敵意を弱めるために積極的に行動し、良い世界になるように働かれたのです。
 だからこそ、イエス様は弟子たちに、そのあわれみ深さを継承して、良い世界へと変革していくようにと招かれます(36節)。そのために大切なことは、やはりイエス様の働きに表される「父のあわれみ深さ」を体験することでしょう。その時に初めて、愛の輪を広げる、本当の意味でのあわれみ深さを、私たちのものとすることができるのです。

3)大きな報い

 そのように生きていく時、私たちの報いは非常に大きなものとなります。何と驚くべきことに「いと高き方の子どもになります」という約束が与えられるのです(35節)。「いと高き方の子」、それはイエス様ご自身の呼び名です(1:32)。しかし、イエスの弟子として歩いていくときに、私たちはイエス様と同じように「いと高き方の子」とされるのです。
 その結果、実際的な報いを受けることができます。イエス様はそのことを示すために「秤のたとえ」を話されました(37-38節)。ここでは「さばくな、不義に定めるな、赦せ、与えろ」という消極的命令と積極的命令が二つずつ出てきます。まさにこれは、普通では考えられないあわれみ深い行動です。そのような行動は、実は自分に返ってくるということをイエス様は語ります。すなわち「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえる」ということなのです(38節)。その結果、私たちが誰かに示した「あわれみ深さ」は、私たちに返ってきます。そのような意味で、神様は私たちの善を決して見過ごされるのではないということを覚えることができるのです。

 私たちもイエスの弟子として、このあわれみ深さをいただき、それぞれの場所へと遣わされていきましょう。