
聖 句「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています」(ルカ6:46)
説教題 「師の心を私の心とする」
聖 書 ルカの福音書6章39~49節
説教者 栗本高仁師
イエス様の弟子は、イエスの価値観で生きること、すなわち愛の輪をどこまでも広げていくことが大切であるとみてきました。私たちが、そのように歩んでいくためにはどうすれば良いのでしょうか。
そのために、イエス様はたとえを用います。4つの異なる話を「一つのたとえ」として語られます。
1)イエスに導かれて
まず、盲人が盲人を案内するという話です。もし、目の見えないものが盲人を案内するなら、その結果は悲惨です(39節)。盲人を案内できるのは、目の見える人でなければならないのです。それと同じように、弟子であるあなたがたは、盲人に案内されてはならないとイエスは語るのです。イエスの弟子である私たちが見るべき方は、ただお一人です。師であるイエス様を見て、この方にしっかりとついていく必要があるのです。そして、「誰でも十分に訓練を受ければ、自分の師のようになります」(40節)とあるように、イエス様のことば・生き方から学ぶとき、私たちはイエス様のようになることができるのです。まさに、イエス様の働きを継承するものとなることができるのです。
2)心の変革を目指して
それでは、十分な訓練とはどのようなことなのでしょうか。
まず、私たちが気をつけなければならないことが語られます。それは、自分自身を省みるよりも、他者をさばいてしまうということです。イエス様はそのような私たちの傾向をご存知であるがゆえに、「兄弟の目にあるちり」と「自分自身の目にある梁」のたとえ話をされたのです(41節)。私たちは往々にして自分自身の大きな問題は棚上げして、他者の小さな欠点を指摘しやすいものです。しかし、まず私たちは「自分の目から梁を取り除」く必要があるのです(42節)。
次のたとえも自分自身を省みることとつながっていますが、私たちのどこを省みる必要があるのかが語られます。それは、私たちの心です。そのことを教えるために、良い木と悪い木のたとえを話します。その木が「良い木」であるのか「悪い木」であるのかは、「その実によって分かります」(44節)。それと同じように、その人が「良い人」か「悪い人」かは、外側に出てくる行動で分かります。なぜなら、私たちの心にあるもの(=「良い倉…悪い倉」)から、私たちは取り出すからです。そうであるならば、私たちが本当に省みて、変えなければならない部分は「心」であることがわかります。その時に弟子は本当に良い実を結ぶことができるのです。
イエス様の弟子である私たちは、いつも自分自身を省みるものとさせていただきたいのです。そして、私たちの行動の根源である「心」を変革させていただきたいのです。
3)深く掘り下げて
このように、イエス様のもとに行き、イエス様のことばと生き方を通して、自分自身の心を造り変えていただき、イエス様のように行っていく時、私たちはイエス様の弟子となります。
イエス様はこの平地の説教の最後に、総括として次のたとえを語ります。イエス様の弟子(=「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人」)は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています」と(48節)。このたとえは私たちに何を語っているでしょうか。まず、本物の弟子となるには、土台を据える必要があるということです。次に、その土台作りは一朝一夕ではなし得ないということです。それゆえに「地面を深く掘り下げる」必要があるのです。その時に、様々な力が押し寄せてきても、揺るがされることがなくなるのです。しかし、この土台なしに私たちが進んでしまう時、私たちは簡単に崩れ倒れてしまうでしょう。
私たちは、今弟子としての生き方ができていないと考えてしまうかもしれません。しかし、それは自然なことです。どうぞ、私たちは一歩ずつ、丁寧に、私たちの心を掘り下げながら、イエス様のことばと生き方に倣うものへと造り変え続けていただこうではないでしょうか。
