
金 言 「そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた」(マタイ15:28)
説教題 「イエス様が喜ばれた信仰」
聖 書 マタイ15:21~28
説教者 井上義実牧師
梅雨が明けて本格的な夏になりました。既に厳しい暑さで身体の方は疲れておられることでしょう。この夏も皆様の霊も、心も、身体も守られますようにお祈りしています。昨日のキンダークラスデイキャンプから夏の働きが始まりました。子どもたち、若者たちの祝福をお祈りください。
1)カナン人の母親の苦しみ
イエス様は弟子たちを連れてイスラエルの隣国ツロ、シドンの地方に行かれました。現在のレバノンですが、現在とても不安定な地域です。わざわざイエス様がイスラエルを離れられた理由は、何だったのかと言うと、弟子たちとゆっくり静かに話をされたかったからです。イエス様が語られたかった話とは、これから起こる十字架を通して神様の救い、神様の真理が表されていくことの説き明かしでした。
そこに、この地方の女性がやってきます。娘の病気が重く、イエス様に何とか癒してほしいと願ってやってきました。親にとって子どもが重い病気になることは本当につらいことです。この女性はイエス様がイスラエルでされていたことを聞いていたことでしょう。この女性の「ダビデの子よ」という呼びかけから、ダビデの末から救い主が生まれるという聖書の預言も知っていたと言えます。
イスラエルにとってダビデは今も偉大な王として受け止められていますが、カナン人にとってダビデは征服者です。近隣の国同士では片方で英雄でも、片方では侵略者ということはよくあります。イスラエルと他国人は区別されていました。カナン人がユダヤ人と関りを持つことは考えられないような状態でした。
しかし、この女性が持っていた、娘が癒されるためにとの願いは、全ての壁を、妨げを超えていました。時代も、民族も関わりのない、全ての親が持つ思いです。この女性がイエス様を信じて、藁をもすがる思いでやってきたことは大きな恵みになっていきました。
2)イエス様とのやりとり
イエス様は、「救い主イエス様、娘を治してください」と願う女性にどのように答えられたのでしょうか。そのやりとりの一回目はお答えにならずに、無言のままでした。しかも弟子たちは、「あの女を去らせてください。」とこの女性を厄介者、邪魔者扱いにしています。
イエス様が口を開かれた二回目のやりとりは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」と語られました。イスラエルの人たちが第一で他国人は考えられないと言われています。私たちもこれを聞いて、冷たい答えだと思います。しかし、神様の働きは順を追って、漸次的に広げられていくという面があります。イエス様の十字架による救い、神様の福音もイスラエルから始まって近隣へと広げられて行きます。しかし、この女性は決してあきらめませんでした。
三回目のやりとりでイエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われました。これは二回目の言葉と同じ意味になります。先ずはイスラエルの救いが大切だと言われました。
この女性はイエス様から3回、冷たいと思える対応をされましたが、決してひるみませんでした。イエス様からの三回目の答えには手がかりが隠されています。イエス様の「小犬」という言葉です。新約聖書で普通に犬として使われる言葉には、偏った良くない意味も含まれています。この小犬と言う言葉は家庭の中で飼われている愛玩犬のことを指しています。この女性は「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と答えています。この女性にはパン屑ひとかけらのような小さなものであっても、大いなるイエス様の働きの中で、自分の娘は癒されるという信仰を持っていたのです。
3)イエス様は高みへと導く
イエス様はこの女性が今置かれている状況も、神様への思いも、全てをご存知でした。イエス様はすぐにでも娘を癒すことはできたおとです。しかし、イエス様はあえてこの女性に冷たく見える言葉を語られました。この女性の信仰を明らかにし、さらに高みへと導くためであったのです。
この女性のように他国人であっても信仰を誉められたのは、カぺナウムのローマ軍の百人隊長もそうでした(マタイ8:5~13)。ローマ軍の百人隊長の求めは一人の家来の癒しでした。イエス様の言葉には神様の権威があり、力があるという信仰を持っていました。この女性はイエス様の愛は全ての人に届くものであり、全てを越えて働かれる力があるという信仰を持っていたのです。イエス様はすでに、ここでもイスラエル、他国人という区分を超えて働かれています。
イエス様はその人の内なるものを見られており、試練さえも通して、さらに信仰の高みへと引き上げようとされました。それは他にも見ることができます。例)
私たちは試みや困難をどのように受け止め、どのように対処していくのでしょうか。神様の祝福につながっていくのか、苦しみや痛みに留まってしまうのか。イエス様は愛の眼差しをもって私たちを見つめられ、導こうとされています。
神様は私たちをご存知であり、耐えられない試練は与えられないことも事実です「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント第一10:13)。どんなことがあっても神様の元にとどまること「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4・5)、「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(ヨハネ第一4:15・16)が大切であり、とどまることによって、神様は愛と真実を明らかにしてくださいます。
今日、皆さんは神様の元におられます。私たちは人生のさまざまな荒波を通されますが、イエス様の元に留まった女性が神様の恵みに与ったように、神様から離れないで神様に求め続けましょう。神様はより高い、より深い、より広く、より豊かな愛を表してくださいます。
