
聖 句「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」(ルカ7:7)
説教題 「ただおことばを」
聖 書 ルカの福音書7章1~10節
説教者 栗本高仁師
イエス様は平地の説教にて、弟子とはどういう人のことであるのかを語られました。その直後において、まさにその弟子としての姿を体現する人が登場し、イエス様はその信仰に驚かれるのです(7:9)。
1)あわれみ深く、敵を愛する姿
イエス様がカペナウムに入られたときです。そこにはイスラエルを治めるローマ軍の駐屯地があり、そこの百人隊長の「一人のしもべ」が病気で死にかけていました(2節)。彼はイエス様のことを聞いていたため、使いを送って「自分のしもべを助けに来てください」とお願いします(3節)。しかし、この百人隊長はただ癒しを求めてきた人とは違っていました。
まず、この「しもべ」は「奴隷」ということばと同じであり、おそらく部下ではなく、彼の個人的な「しもべ」であったのでしょう。当時、奴隷は所有物のように扱われていましたが、この百人隊長はこのしもべを一人の大切な家族として受け入れ、彼が死なないように働きかけるのです。ここに父なる神様の持つ「あわれみ深さ」を見ることができるのです(6:36)。
また、この百人隊長はローマ陣営の人でありながら、「ユダヤ人の長老」を送ったのは不思議です。しかもこの長老たちは、イエス様に「熱心にお願いして」「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(4節)と言うほどに、百人隊長のことを慕っています。それは、この百人隊長が、まずユダヤ人たちを「愛し」、彼らのために「会堂を建て」たからでした(5節)。まさに、この姿は「敵を愛しなさい」(6:27)というイエス様のことばを行う人だと言えるでしょう。
2)イエスの権威を認める信仰
しかし、イエス様が驚かれたのは、実はその点ではありませんでした。
イエス様が長老たちと一緒に向かわれる途中のことです。何と近くまで来た時に、百人隊長がさらに使いを送ったのです。そして「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません」と言います(6節)。ユダヤ人が異邦人と関わることはできないということを、彼は十分に知り、わきまえていたのです。使いを二度送ったのもそういった理由でした(7節)。支配する側でありながら、ユダヤ人に対する尊敬と愛を見ることができます。
ところがイエス様が驚かれた信仰の核心部はその点でもありません。実は、彼の「ただおことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください」ということばにあります。なぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼自身が権威の下に置かれていて、彼自身の下にも部下がおり、彼のことば一つで彼らが動くことを知っていたからです(8節)。つまり、この百人隊長は、イエス様の持っておられる「神の権威」を認めていたのです。イエス様のことばをいただければ、必ず事が成就することを信じていたのです。それゆえに、イエス様は「これほどの信仰を見たことがありません」と驚かれたのです(9節)。
3)信仰とは何か?
この話を通して、私たちは「信仰」とは何かということが問い直されるのではないでしょうか。
それは外面上・形式的なこととは関係ないということです。この百人隊長のために、ユダヤ人の長老たちはイエス様に取り次ごうとしました。長老たちも、百人隊長自身も、イエス様に近づいて交渉するには「ユダヤ人」が相応しいと考えていたことでしょう。しかし、イエス様が称賛したのは、この百人隊長の信仰であったのです。つまり、信仰は人種や立場とは関わりがないのであります。私たち異邦人にとって希望であります。
そして、信仰の本質を教えられるのです。この百人隊長は、まさに「岩の上に土台を建てる人」と重なります。つまり、イエスのことばを聞き、行う人の姿です(=イエスのことばに信頼する人しかできないため)。私たちの信仰が本物であるかどうかは、どの身分や立場にあるかではなく、どれほどイエスのことばの力に信頼しているかに、かかっているのではないでしょうか。そのような意味で、クリスチャンという肩書きで満足していないか、と私たちも問われることになるのです。
どうぞ私たちも、イエス様のことばの権威に信頼し、「ただおことばを下さい」と言うお互いとさせていただきましょう。
