
聖 句「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。」(ルカ7:22)
説教題 「この方こそ来るべきお方」
聖 書 ルカの福音書7章18~23節
説教者 栗本高仁師
イエス様の権威が明らかになる中で、人々の関心はいよいよ「イエスとは誰なのか」ということに移っていきます。それはあのバプテスマのヨハネも同様でした。
1)ヨハネの疑問…?!
すでにルカの福音書において、バプテスマのヨハネは「牢に入れられている」ことが記されていました(3:20)。彼は獄屋にいながらも、彼の弟子たちによって、イエス様がなしたことについて報告を受ました(18節)。しかし、その報告を聞く時、彼の内には一つの問いが生まれます。それは「この方こそが来るべきお方なのか」、すなわち「真の王であるキリスト(メシア)なのか」ということです。なぜなら、彼はキリストについて、次のように啓示を受けていたからです。「…私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます」(3:16-17)と。つまり、キリストは、正しい裁きをなすということを聞いていたのです。
しかし、弟子たちから受ける報告を受けると、むしろイエスは悪霊を追い出し、人々を癒やし、死人を生き返らせ、貧しい人たちと関わっていることを聞くのです。もちろんそれは良いことでした。しかし、正しい裁きをなすという彼の抱くメシア像と違っていたのです。そのため、二人の弟子を呼んで、イエスのもとに遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか」と尋ねるのです(19節)。
2)イエスの答え
二人の弟子がイエスのもとに来て、ヨハネの伝言を伝えます。するとどうでしょうか。「ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた」のです(21節)。このような癒やしの働きばかりしているゆえに「おいでになるはずの方は、あなたですか」とヨハネは疑問に思っていたのです。そのように考えると、このことはさらにヨハネたちを不安にさせる出来事のように思えます。
しかし、イエス様は確信を持って言われます。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています」と(22節)。「わたしがメシアである」と直接的には言いませんが、これはすべてイザヤ書で預言されていた「神の国の到来」のしるしでした。イエス様は目の前でなされていることこそが、真の王であるキリストが来たことのしるしだと、ヨハネたちに伝えるのです。イエス様は宣教の始めからそのことを宣言し(4:18)、真の王としての使命を果たしておられたのです。
3)私たちの基準ではなく
おそらくヨハネはイザヤ書の預言のことを知っていたでしょう。そのためイエス様のことばを理解したことでしょう。しかしイザヤ書の預言を知っていながらも、ヨハネはイエスが一体だれなのかということがわからなくなったのです。それは、彼が期待している通りのことが起こっていなかったからです。イエス様は最後に「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(23節)と言われました。まさに、ヨハネはイエス様につまずきかけたのです。
私たちもイエス様がどなたであるのかということを見誤ってしまうことがないでしょうか。イエス様でない方に従う方が上手くいくと思ってしまうことがないでしょうか。そのようにつまずきかけたとき、私たちは思い起こしたいのです。「私が期待する救い主を求めていないだろうか」と。私たちはどこまでも自分の基準で考えてしまいます。その基準がずれていないだろうかと問われるのです。そして、私たちがそのような「自己中心」から抜け出す時、私たちには幸いな道が開かれるのです。
「イエス様は誰なのか」という問いかけに、私たちはどのように答えるでしょうか。
