
聖 句「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」 (ルカ8:25)
説教題 「すべてを従える方」
聖 書 ルカの福音書8章22~25節
説教者 栗本高仁師
イエス様は弟子たちを遣わすための準備として、さらに彼らと共に歩まれます。その中で「イエス様ご自身が一体どのようなお方なのか」ということを彼らに教えようとされます。
1)荒波という試練
ある日のこと、イエス様は湖の向こう岸へ行くために弟子たちと一緒に舟に乗ります(22節)。ここまで常に多くの群衆がついて来ていましたが、イエス様は弟子たちとだけの時間を過ごされます(参考:マルコ4:36)。
イエス様はこの舟の上で弟子たちに何か講義をされたわけではなく、何と「眠り始め」たのでした(23節前半)。それだけなら問題はありませんが、ここで彼らではどうにもならない出来事が起こります。突然大きな嵐に遭遇するのです(23節後半)。ガリラヤ湖は近くの高い山から吹き下ろす突風によって、よく嵐が起こったそうです。弟子たちの中には元漁師もいたため、もちろん嵐自体には慣れてかつ対応方法も熟知していたことでしょう。しかし、そのような彼らでさえも、窮する事態となったのです。
この舟の旅路は、私たち信仰者の旅路でもあります。時にこのような手に負えない、制御不能な出来事に直面することがあるのではないでしょうか。種のたとえでも語られたように、信仰者の旅路には荒波という試練が襲いかかってくることがあるのです。
2)世界を治める方
このような状況の中で、弟子たちは眠っておられるイエス様をすぐさま 起こしに行きます。「先生、私たちは死んでしまいます」と彼らは必死で叫びます(24節)。その時、イエス様は「起き上がり、風と荒波を叱りつけられ」ます。「すると静まり、凪にな」ります(24節)。
ここで、イエス様はご自身が一体何者かということをお示しになられます。イエス様はこれまでも「悪霊」(4:35,41)や「熱」(4:39)を「叱り」、それらを従えてこられました。さらに、ここでは「風や海までも」、つまり自然界を従える力を示されたのです。この体験をした弟子たちをはじめ、この物語を語り継いで来たキリスト者たちは、旧約聖書の御言葉を思い起こしたことでしょう。「この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると 波は穏やかになった」(詩篇107:28-29)。イスラエルの民にとって、神様は自然界を治めるお方なのです。それは出エジプトの葦の海での奇跡(出エジプト14:21-31)に基づく信仰告白です。まさに、イエス様はここで、ご自身がこの世界を治める真の神であるということを弟子たちに明らかにされたのです。
私たちとともにおられるイエス様は、私たちでは制御不能な様々な力からも救い出すことができるお方であることを覚えたいのです。
3)イエスの静けさに見る信仰
イエス様は弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」ということです(25節)。彼らはイエス様に助けを求めました。しかし、それはイエス様への信頼ゆえの行動ではなかったのでしょう。彼らはイエス様が直前で「忍耐して実を結ぶ」ことの大切さを聞いていましたが、この嵐という試練の中で耐え忍ぶことはできませんでした。これが私たち人の姿とも言えるでしょう。ここで彼らが問われたように、私たちも様々な人生の旅路の中で私たちの信仰がどこにあるか、と問われ続けていくのだろうと思うのです。
しかし、この物語の中にもイエス様の憐れみを見ます。信仰がどこにあるのかわからないような弟子たちの「叫び」に対して、イエス様は力強いことばを持って、嵐を鎮めてくださったのです。同様に、イエス様は信仰があるとは言えないような私たちの祈りを聞いてくださるのです。
そしてこのような体験の積み重ねを通して、私たちは神様への信頼を学んでいくのではないでしょうか。イエス様はこの嵐のただ中でも「静まって」おられました。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)とあるように、それは父なる神様への信頼であります。繰り返し遭遇する嵐の中で、イエス様のこの静けさの中にある信仰が、私たちの心にも映されていくのではないでしょうか。この信仰を私たちもいただいていこうではないでしょうか。
