聖 句「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」 (ヨハネ15:9)

説教題 「わたしの愛にとどまりなさい」
聖 書 ヨハネの福音書15章1~11節
説教者 栗本高仁師

 誰にも頼ることなく、自分の力だけで生きていくことが大切だ、と言われることがあるかもしれません。しかし、イエス様はそのようにはおっしゃいません。

1)実を結ぶ使命が与えられている

 イエス様は「ぶどうの木」を用いた一つのたとえ話をされます。ぶどうの木の使命は当然「実を結ぶ」ことです。現代を生きる私たちにとってぶどうは必要不可欠なものではありませんが、当時のイスラエルにおいてはとても大切でした。なぜなら、イスラエルにおいて水はとても貴重な資源であり、ぶどう酒はとても大切な飲料であったためです。ぶどうの木は、人々が生きる上で欠かせないものであったのです。
 イエス様はそのぶどうの木を用いて「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(5節)と言われます。木は根を張って土から生え出ている部分であり、枝は木につながっている部分です。そして、その枝に実がなるのです。つまり、私たち人間は「豊かな実を結ぶ」大切な使命を担う部分であるということなのです。
 私たちは「あなたの代わりならいくらでもいる」という心無い言葉に傷つくことがあります。しかし「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」とあるように(16節)、イエス様は「あなたは選ばれた存在である」と言ってくださるのです。「あなたでなければならない」と言われるほどに、私たち一人ひとりは尊い存在であることを覚えましょう。

2)愛の実を結ぶ

 私たちはどのような実を結んでいくのでしょうか。イエス様はここで具体的な使命については言われませんが、一つの大切なことを語られます。そのキーワードは「愛」です。つまり、イエス様が言われた「多くの実」とは「愛の実」なのです。それゆえに、イエス様は「互いに愛し合」いなさいと言っておられます(12,17節)。
 それでは愛の実とはどのようなものでしょうか。大きなテーマであり、一言では言い表せません。しかし、イエス様のことばから「愛」の本質について教えられます。「人が友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)とあるように、愛とは誰かに与えるものなのです。自らよりも他者を大切にすることが、最も愛らしい愛だということです。
 そのように考えると、私たちは愛することによって、自らが損をしてしまうと考えるかもしれません。しかし、誰かに愛を与えていくこと自体が私たちにとって喜びではないでしょうか。さらに、そのような他者に与える愛はどんどん広がっていくのです(16節)。私たち人に、愛の輪を広げることができるのです。愛が冷えていると言われる時代の中ですが、「あなたがたは多くの愛の実を結ぶ枝である」というイエス様の言葉にしっかりと耳を傾けたいのです。

3)イエス様の愛にとどまる

 私たちはどのようにすれば愛の実を結ぶことができるのでしょうか。イエス様は「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(5節)と言われます。当然、枝はぶどうの木につながっていなければ、水分も栄養も吸収できないので、実を結ぶどころか枯れていきます。同様に、私たち枝が本当に使命を果たしていくために大切なことは、木であるイエス様に「とどまる」ということなのです。
 私たちが実際に誰かを愛そうとするとき、イエス様にとどまることがいかに大切かを知ります。私たちは自分だけで一生懸命誰かを愛そうとしても、どこかで限界をむかえ、愛するどころか反対に憎んでしまうことがあります。それは私たちの内側では「与える愛」を生み出すことができないからです。私たちはいつも外側から完全で尽きることのない愛を与えられなければならないのです。その愛を持っているのは、「まことのぶどうの木」(1節)と言われたイエス様だけです。十字架上で、自らを罵るものたちのために自分のいのちを与えたイエス様だけなのです。それゆえに、イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)と私たちを招かれるのです。
 
 私たちには、つながることができる方がおられ、その方から豊かな愛をいただき、豊かな愛の実を結ぶことができるのです。このイエス様を信じて、このイエス様と一緒に歩む人生を送ろうではないでしょうか。