
聖 句「イエスは彼らに言われた『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えた。『神のキリストです。』」 (ルカ9:20)
説教題 「この方は一体だれなのか」
聖 書 ルカの福音書9章18ー27節
説教者 栗本高仁師
ここまでのイエス様の言動は、あらゆる人々に一つの疑問を抱かせてきました。それは「この方は一体だれなのか」という問いです(8:25,9:9)。
1)預言者以上のお方「キリスト」
イエス様ご自身も人々の問いに気づいておられました。そのため、弟子たちに「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と尋ねます(18節)。弟子たちは、群衆が「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者の一人が生き返った」と言っていると答えます(19節)。確かにイエス様は、かつての預言者のように、ツァラアトを癒やし(エリシャ)、死者をよみがえらせ(エリヤ)、天からのパンで養って(モーセ)きました。しかし、その回答は不十分でした。それは、イエス様は単に預言者と肩を並べる存在ではなく、預言者以上の方であるからです(お一人ですべての預言者の働きを担われた)。
そのような群衆の理解に対して、イエス様は「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と弟子たちに尋ねます(20節)。筆頭弟子のペテロは代表して「神のキリストです」と答えます。これは適切な応答でありました。彼らは身近でイエス様の働きを見ながら、この方こそユダヤ人が待ち望んでいた、天の神から遣わされた正真正銘の「キリスト(=メシア)」であるとわかったのです。
イエス様は、すべての預言者を超えるお方である「メシアなるキリスト」であることを私たちも覚えたいのです。
2)十字架の道を進まれるキリスト
しかし、実はそのような弟子たちの理解さえも、十分ではありませんでした。彼らが「キリスト」というとき、それは敵国ローマを文字通り打ち破り、神の国を樹立してくれる王を期待していました。しかし、イエス様が「キリスト」としてなそうとされる救いのわざは、それとは異なっていました。
そのため、イエスは「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」と告げられます(22節)。これは非常にショッキングなことばでした。キリストが、最も神様の働きに近いと言われていたグループの人々に捨てられて、そして殺されるということは、ありえないことであったためです。しかし、イエス様は十字架の道の必然性を強調されたのです。
イエスとは誰なのかという答えが、まさにこのことばにあります。それは「十字架と復活のキリスト」なのです。イエス様は、すべてのものを癒すために、あらゆる力から解放するために、ご自身が犠牲となる道を歩まれたのであります(イザヤ53章)。私たちはどのようなキリストを信じているでしょうか。
3)キリストのようにいのちを与える人生へ
イエス様は続けて弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、…自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われます(23節)。イエスはなぜこのように言われたのでしょうか。それはある“呪い”から解放するためです。他者をおしのけ、自分のためだけに生きようとする呪いです。イエス様が自らのいのちを与える道を歩まれたように、私たち弟子たちにも、他者のために生きる道を歩み続けるように招いておられます。そして、イエス様は私たち一人ひとりを通して、いのちが豊かになる働き(=神の国の働き)を進めておられるのです。
もしかすると、その道を歩むことはいのちを失うことのように思うかもしれません。しかし、イエス様は言われます。「わたしのためにいのちを失う(=他者のために生きようとする)者は、それ(=自分のいのち)を救うのです」と(24節)。まさに、イエス様がその身を持って立証されました。十字架の死で終わることがなく、三日目によみがえられたのです。最終的に私たちは、いのちを得る道へと進んでいくのです。
つまり、私たちが誰かのためにいのちを与えようとするとき、自分自身も、他者も救うことができるのです。これに勝る祝福の道はないのです。
私たちはイエスがだれであると告白するでしょうか。その告白が私たちの生き方をも変革していきます。真の意味で「キリスト」を告白していくお互いとならせていただきましょう。
