今朝の聖書の箇所はイエス・キリスト様の有名なたとえ話です。
Ⅰ.主なる神の計算を超えた無条件の愛(4~5)
4節。「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」。迷い出た1匹のために、99匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くことが当然のこととして語られています。ここで、「なくした」とか「いなくなった」とありますが、これは、「失った」とか「滅んだ」という意味があります。羊飼いから離れた羊は死んだも同然、滅びた、失なったも同然なのです。なぜなら、羊は羊飼いなしには生きてはいけないからです。そのため、愛のある飼い主は当然、その羊を捜すのです。この場合、99匹は助手や羊飼い仲間にゆだねて、自分は命をかけて迷える1匹の羊を捜しにいく、という事などが想定されます。しかし、イエス様はそのような事をあえてここで解説していません。一匹一匹の羊をかけがえのない存在として愛している、という計算を超えた愛をここに見ます。そして、この羊の持ち主は神の子であり神であるイエス様を指し、父なる神様を指しています。迷いだした一匹は、神の御許、キリスト(救い主)から離れた罪人の事を表します。
では99匹を愛していないのかというと決してそうではありません。もし、99匹の中の別の一匹が迷い出るならば、イエス様を指している羊飼いはその一匹のためにも命をかけて、他の羊を置いてでも、その一匹を愛して捜し求めて下さるお方なのです。ですから100匹の羊を漏れなく、計算を超えた最高の無条件の愛をもって愛して下さっているという事なのです。だからこそ羊たちは安心できるのです。救い主イエス様はそのような羊飼いのようなお方(詩篇23篇)であり、主なる神様は全ての人を愛して造ったお方で全人類の「持ち主」なのです。
Ⅱ.捜し求める神の十字架の愛(6~10)
さて、このイエス様のたとえ話は、律法学者やパリサイ人と呼ばれる宗教者たちのつぶやきを受けてのものでした(1~3)。そのつぶやきの中で、「この人は罪人たちを受け入れて」とありました。そこで、イエス様は3つのたとえ話を話されました。確かに主イエス様の言動を見たら、「受け入れ」、「歓迎し」、「待ち望んでいる」わけですが、この3つのたとえ話を通して、神様の愛はさらにすごい愛、すなわち捜し求める愛なのですよ、と教えているように思うのです。
4節には、見つけるまで捜し求める愛。そして、5節。「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ」とあります。これは、「両肩」の意味です。この羊の所有者は、イエス様(神様)の事を指しています。イザヤ9・6は有名なキリストを預言する言葉です。主イエス様はその肩(片方)の方に、主権を担うお方。そのようなお方が、一匹の滅びかけた無力な迷える羊を、わざわざ両肩に担いでいます。これは愛です。片手で楽々とつかんで帰れるのに、両肩にしっかりと担いで、喜んで家に帰る。ここに羊への愛を見ます。無駄な事とか、余計な事を、と言われかねないかもしれません。しかし、それは神の愛の現れです。
その神の愛が最も明確に示されたのは、十字架のイエス様です。絶対主権者なる主イエスが、滅びに向かっている罪人一人一人の救いのために、何不自由のない天の王座を後にしてこの罪の世に、人間の赤子となってご降臨されたのみならず、私たちの罪を全身全霊で十字架で身代わりに担い、身代わりに死なれました。この神の愛による身代わりの死が私たちの救いの為に必要なほどに、人類の罪は罪深いという事でもあります。しかし、この神の愛、十字架のキリストの身代わりの死の愛によって、悔い改めて神に帰り、救い主イエス様を信じる私たちは救われたのです(使徒16・31、ローマ4・24~5・2)。主イエス様は私たちを救うために天から捜し求めて来て下さり、「天国への唯一の救いの道」となって下さいました(ヨハネ14・6)。それは私たちを救い、ご自分のものと回復するためです。100匹の羊と持ち主のたとえ(4~7節)、10枚の銀貨と持ち主(婦人)のたとえ(8~10節)、2人の息子とその父親のたとえ(11~32節)から、人間はもれなく神に愛されている神のものであり、それこそ私たちの本来の光栄(栄光)である事が教えられます。父なる神の独り子なる神、イエス様もまた父なる神との愛の交わりをお求めになりました。父なる神に愛され、父なる神と共にいる事が神の御子イエス様の栄光であり、私たちの栄光でもあります(ヨハネ17・5、24)。
【祈り】主なる神様。十字架の愛で愛して下さっている事を感謝致します。これ程あなたに愛されている事が私たちの栄光です。
