続いてエペソ人への手紙を見ます。これまで、教会は神の国民、神の家族、神の御住まいである神の神殿である事を学びました。今朝はその続きを見ましょう。

1.キリスト・イエスの囚人パウロ(1)

1節。「こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」「こういうわけで」とは2章までを踏まえてという事です。当時、ユダヤ人と異邦人とは敵対し、ユダヤ人は異邦人を汚れた民として見下していました。しかし、主イエス様を信じて救われたユダヤ人パウロは、神様から異邦人への伝道の使命を頂きます。そしてパウロは神様から与えられた「異邦人に福音を伝える使命」を果たすが故に、ユダヤ人に訴えられて牢屋で鎖につながれていました(6・20)。ですから、「キリスト・イエスの囚人となっています」とは「キリストのために捕らえられている」という意味です。2節はさらにもう一つの意味があります。それは「パウロ自身キリストにとらえられている」という意味です。キリストに愛され救われ、キリストにあって与えられている豊かな天上の霊的祝福と、神に約束された相続財産のすばらしさに圧倒され、心とらえられているという事でしょう。だからこそ投獄されてもなお、主イエス・キリストに心から仕え、光栄を感じ、いつも喜び、感謝し、神を賛美し、福音を宣べ伝えているのでした。

使徒パウロは自らの命をかけて、ユダヤ人と異邦人の敵対関係を超えて、異邦人に仕えていったのです。そこには異邦人に対する神様のご計画、神様の御心、神の愛を体現している使徒パウロの姿があります。彼は、実際に、福音宣教の故に、冤罪のゆえに逮捕されていましたが、それは、「キリスト・イエスの囚人」と言い表すほどに、イエス様に信頼し、自ら喜んで従い、イエス様のしもべになっていたからでありました。裏返せば、パウロがそこまでしても惜しくないお方が、主イエス・キリスト様なのです。

2.神の恵みによる使徒パウロという存在とその働き(2~7)

教会の迫害者サウロが使徒パウロとされた事、また、その働きと生涯、それは神からの恵みの賜物でした。7節。「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」。教会の迫害者サウロ(使徒8・1~3、9・1~20)が使徒パウロとされたのはただ神の恵みでした。また使徒パウロがあれだけの宣教の働きを成しえたのも、神の恵みにより、神の大能の力の働きによったのでした。この点、第一コリント15・8~10には「神の恵みによって、私は今の私になりました」、「…働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです」とパウロは書いています。「福音」(7)とはイエス・キリスト御自身の事です。この福音と結ばれたのが使徒パウロでした。使徒パウロはこの福音を伝えるために神に立てられた神のしもべでした。彼は福音を伝えるだけでなく福音に生きたのです。その奥義は救い主イエス・キリスト御自身(コロ1・27)であり、このお方への信仰によって、ユダヤ人、異邦人共に神に近づける(2・18)、共に神の家族、神の宮となる(2・19~22)という事です。ですから主イエス様の囚人(3・1)である使徒パウロの投獄は、ともすれば福音の敗北のように見る人もいたでしょうがそうではありません。この神に立てられたユダヤ人使徒パウロの苦難は異邦人がそれほど神に愛されている事を示す、異邦人にとっての光栄なのです(3・13)。

私たちは言葉と共にその人自身を見て判断します。パウロは言葉において、また手紙において福音を伝えました。3~6節。「先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです」。さらに、パウロは自分という存在、行動、生き方をもってキリストの福音を証したのです(2)。神の子であり、神であられる主イエス・キリスト様が、人となってこの罪の世に来られ、迫害され、私たちの罪のために十字架におかかりになられたように、使徒パウロはユダヤ人であるにもかかわらず、敵対関係にあった異邦人を愛して仕え、異邦人のために獄屋に入れられてでも、福音を語り続けたのです!これは異邦人への神の愛の現れなのです。

(祈り)天の父なる神様。私たちもただ神様の恵みによってイエス様を信じて救われ、神の恵みの賜物としての人生に生かされている事を感謝します。イエス様によって、アーメン。