本年度の教会聖句の二つ目は、ピリピ1章20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」です。私たちがいつも神様から宣教の力をいただいて、神様の愛を宣べ伝えていくことを心から願っています。

Ⅰ.パウロの強さ

この手紙を書いたパウロは今、生きていることも、やがて、天に帰ることも、全ては主のためです言っています。パウロは命がけで、死に物狂いでイエス様を宣べ伝えていました。パウロが出かけていった伝道旅行の厳しさは、コリント第二11:23~28に詳しく記されています。ユダヤ人からのむち打ちが5度、ローマ人からのむち打ちが3度、ユダヤ人の石打ちの刑が1度、船の難破が3度、多くの患難をかいくぐってきました。眠れない夜を過ごし、飢えや渇きがあり、寒さの中、裸でいることさえありました。その上に、関わりのある教会を絶えず心配していました。

パウロはこのような困難の中でも、イエス様を伝え続ける情熱はどこにあったのでしょうか。イエス様を信じる以前は、教会の迫害者サウロであったにも関わらず、神様の限りない愛によって、赦され、変えられたことにあります。かつては敵であったもの、遠く離れていたものを、見捨てず、罰せず、救い出してくださった無限の愛を持っておられる神様への心からの感謝がパウロを動かしていました。

パウロは自分のこと、をテモテ第一1:15では「罪人のかしら」と言っています。これは本心からの言葉です。パウロは自分の原動力をコリント第二5:14では「キリストの愛が私たちを捕えているからである」と言っています。ここにパウロの強さの源があります。

Ⅱ.私たちの弱さ

私たちは、パウロという人が特別な存在だからこそ、ここまでの献身、情熱に生きていたと思います。自分を見るならば、普通の平凡なクリスチャンだと思いやすいです。確かにパウロは教会の歴史の中で最大の人物と言えるでしょう。

しかし、私たちの信仰や生き方を、パウロの信仰や生き方と比べてどうなのか、他の素晴らしい聖徒の誰かと比べてどうなのかと言う必要はありません。ピリピ3:16「ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」とパウロは言っています。私たちは、今ある自分を認めて、そこから出発することができます。

自分に弱さがあっても、欠けがあっても、心へりくだって神様を見上げて、生活も、仕事も、学びも歩んでいくということです。パウロは誰よりも強さを持っていましたが、パウロはそれを自慢したり、人に押し付けたりしてはいません。ピリピの信徒たちが心を一つにして、自己満足ではなく、人のために生きるものであってほしいと願っています。ピリピ2:2~3「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。

例)本年度は教団の歴史のお話をしてきました。バックストン、ウイルクスを始めとして私たちにも多くの聖徒たちが与えられてきました。キリスト教会に多くの偉人があるが「大河の流れも一滴の雫から」を思う。私たちは一滴の雫のような存在だが、その一滴がなければ何も始まらないのです。山に振った雨が、葉っぱのしずくとなり、沢となり、川となり、大河となり、大海に注がれていく。神様は私たち一人一人を顧みられている。

私たちは弱いものですが、神様にささげるささげものを、神様は喜んで受け止めてくださる。私たちの存在は小さいですが、私たち一人一人が教会につながり、神様につながってキリストの御体を建て上げていきます。

Ⅲ.共に生きる喜び

さらに、パウロはピリピの教会に心を向け、信徒たちが神様にある喜びを持って生きるように願っています。ピリピ4:4~7「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と言っています。

主に生かされている私たちが、神様を喜びながら生きていることが何よりも大きな神様の証しです。私たちの生き様が宣教の前進につながっていきます。ピリピの教会、信徒に戦いがあったからこそ、パウロはこの手紙を書いています。その戦いの中で、喜びが満ちあふれるために「喜びなさい」と語っています。私たちがどんな中でも、喜びをもたらしてくださる神様の愛を信じて、私たちも進んでいくものです。

私たちが喜びとするものはこの世にもたくさんあります。幸福だと思えるもの、感謝だと思えるものがあることは素晴らしいことです。けれども、それらが無ければ人生は空しいのでしょうか。主にある喜びは生も、死も超えて、神様の永遠の内にあります。私たちは失望や落胆に陥らず、気持ちが途切れてしまわず、主に目を上げてそれぞれの歩みを続けていきましょう。