金 言 「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」(Ⅰヨハネ2:1)

説教題 「私たちの弁護者キリスト」
聖 書 Ⅰヨハネ2章1~6節
説教者 長谷部裕子師

 ヨハネの第一の手紙1章後半では、私たち人間はすべて、神様のみまえでは紛れもない罪人であると言われました。しかしキリストの十字架の意味を知る以前に、もし私たちが誰かに「あなたは罪人ですよ。」と言われたら、「はい、そうですね。」と言われた通りに素直に認めることはとても難しいと思います。
 ところが聖書は明らかにそこを指摘します。神様のみまえでは「義人はいない、ひとりもいない。」(ロ-マ3:10)ことが偽らざる事実とわかると、すべての人にはやがて恐ろしいときがやってくることになります。なぜなら人は死んだのち「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(ヘブル9:27)とあるからです。ということは、あなたもいずれ神様のみまえに立つそのときがやってくるのです。つまりすべての人は、死んだ後に一度は罪人として被告人席に立つのです。そして「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。」(ローマ14:12/新改訳2017)と知らされたとき、ドキッとしない人はおそらくいません。なぜなら私の人生のすべての日々を手に取るように知られるお方に、どのように弁明ができるでしょうか。成す術を知りません。

1. 私たちの弁護者イエス・キリスト (1~2節)

 ところがその裁判の時に、私たちにはこの上なく頼もしい弁護者がついておられるのです。それが2章1節後半です。「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」(新改訳2017)、聖書協会共同訳ではここを「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」本来なら、私の犯した罪に下されて当然のさばきの鉄槌を、イエス・キリストは罪人の私たちをかばってとりなし、「この人を赦してあげて欲しい」と神様に弁護してくださるのです。なんと心強いことでしょう。
 そうは言っても私たちの罪は歴然としています。ですから、キリスト自らが私たちに代わって、罪の罰を受けてくださったのです。十字架は私たちの罪の罰の結果です。それを知ってローマ5:6~8を読むとみことばが実に味わい深く感じます。キリストによる救いの良き知らせ(gospel)を聞いて信じる全世界の人には、だれでも無代価で与えられます。(2)それは神様の恵みでありまさに驚くべき真実なのです。

2. 真理に背き自分を偽る人々 (3~4節)

 4節によれば、ヨハネは聖なる教会の中に偽善者が混ざっていることを憂慮しています。「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」(テトス1:16)つまり言行不一致な人々でした。
 ところで、日本イエス・キリスト教団は、メソジストの流れに属する教団です。メソジストは、18世紀英国のジョン・ウェスレーから始まった信仰覚醒運動で、その名前に由来はメソジスト(几帳面屋)とあだ名されたことからでした。メソジストのグループは神の戒めを生真面目に守り、常に言行一致していました。そのように私たちはたとえ少し世渡りが不器用と思われても、メソジストを強調するクリスチャンはいつでも言行一致して、世の人に証しとなる信仰者になりたいと思います。

3. 御言葉を守りキリストに倣って歩む (5~6節)

 一方でヨハネは御言葉を忠実に守って暮らすクリスチャンには、その人の内で神の愛が実現していますと言います。ところで私たちは何によって他の人に自分の救いを見せられますか。善行や他者に対する親切ですか。残念ながらどんな人も良い行いも救いにはつながりません。救いはただ神の恵みによります。私たちが救われたのは十字架の恵みによって、神の愛を知り信じて生まれ変わったことです。それならあなたが神の愛によって救われたという確かな証拠は、キリストの愛を自らが実践する善い行いに励むことに他なりません。私たちの模範はいつでもキリストです。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。(6)

(問1) 罪人の私たちを弁護してくださる方は誰ですか
(問2) あなたは、口で言うことと行いがちぐはぐな人をどう思いますか
(問3) クリスチャンのお手本になる方はどなたですか。それはなぜですか。