金 言 
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ43:19)

説教題 「涙から喜びへ」
聖 書 詩篇126:1~6
説教者 井上義実牧師

 船橋栄光教会で集まっての礼拝を4月12日から休止した。3か月教会の玄関を締め切ったままであった。運営委員会、奉仕者の皆様によって、再開の第一歩が今日から踏み出せることになって感謝。しばらく不自由はおかけするが、最善の道が開かれるように祈り、共に進んでいきたい。
 詩篇120~134篇の15篇は「都もうでの歌」である。エルサレムの神殿での礼拝のために上って行く巡礼者が歌った詩歌。今、私たちは想像しなかった新型コロナウイルス拡大によって礼拝も制限されるようになった。この時期、教会とは、礼拝とは、信仰とはと考えさせられている。今後の推移を見守りながらこれからの教会、これからの宣教を考えなければならない。ネット礼拝に切り替わった最初の礼拝説教は詩篇121篇から語った。私はこの時期今までになく、特別な思いで礼拝を待ち望む都もうでの歌を読んできた。

Ⅰ.信仰者の回復

 この詩篇は「主がシオンの繁栄を回復されたとき」(1節)とあるが、イスラエルの民が、バビロン捕囚を解かれてイスラエルに帰国した後のことになる。「われらは夢みる者のようであった。」と続く。エルサレムは神殿も王宮もすべて破壊されて、民は捕虜として遠く敵地に引かれていった。国を失った民族が長い期間自分たちを保つことができるだろうか。血筋、言葉、文化という独自性をやがて失い、その地に、その民に同化してしまう。小さな民族に過ぎないイスラエルの独自性が守られたこと、子孫が故国に帰って回復がなされたことは奇跡であり、夢のようなできごとであった。神様は、神様が選ばれ、愛されているご自分の民を守られる、導かれるのである。今の私たちも神様は守ってくださり、やがて回復されることを示している。やがての日に「笑いで満たされ」「喜びの声で満たされ」(2節)る時を待ち望もう。

Ⅱ.信仰者の働き

  回復の喜びや感謝が語られ、私たちの心も強められ励まされる。また、イスラエルの民に求められているものは「涙をもって種まく」(5節)、「種を携え、涙を流して出て行く」(6節)ことであった。農業、農耕のことが語られている。イエス様も、4つの種のたとえ話など農耕を通して語られた。農夫は忠実な働き、忍耐強い働きが求められている。朝から晩まで、寒くても暑くても、手の働きを精一杯果たしていく。しかしながら、日が照る、雨が降る、気温が上がる下がるということでは委ねていくしかない。私たちも、私たちのできる手の働きを精一杯努めながら、神様に委ねていくのである。教会の働き、個人のつながりの働きを、心を込めて行いながら神様の働きにお任せしていく。ここで2つのことが解る。一つは私たちが何もしないで、ただ神様に願うのではない。涙を流すほどの思いを持って精一杯に働きを進める。もう一つは、成長させ実を実らせてくださる神様に委ねていくことである。神様は私たちの心の思い、願いをよみしてくださって、豊かな実りを与えて下さる。

Ⅲ.信仰者の祈り

 「主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。」(4節)に目を止める。ネゲブはイスラエル南部の乾燥した高原地帯で多くは荒野である。ワディと呼ばれる涸れ谷、涸れ川はあるが、常に水が流れているような川はない。現実にあるものではなく、ネゲブの川は神様の奇跡によって起こされなければ存在しない。実はこの言葉は無から有を起こされると考えて良い。この言葉は有名なイザヤ43:19~20と呼応している「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」。神様は有るものからだけではなく、無いものからも事を起こしていって下さる大いなる神様である。この方に大胆に求めて祈ろう。

現在の私たちも新型コロナウイルス拡大という考えもしなかった事態に立ち至っている。この中にあってうなだれることなく、神様が荒野の乾ききったネゲブに、今までなかった川を流してくださるように神様の大いなる業を信じて祈ろう。ネゲブに流れる神様の川を見させていただこう。