金  言 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたが自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」 (エペソ2:8~9)

説教題 「恵みによって救われます」
聖 書 エペソ2:1~10
説教者 矢島志朗勧士
 エペソ人への手紙を続けて読んでいる。1章においてパウロがささげている祈りは、エペソの人々への愛と熱情に満ちている。彼らの信仰と愛について耳にし、祈りのたびごとに彼らのために神に感謝をしている。彼らが希望、神の国、神の力を知るようにと祈っている。またキリストがすべての上にある権威ある方であり、またこのキリストが教会に満ちていることも語られている。そして2章に進んで、パウロは救いについて言及していく。

1.罪の状態(1-3)

 1節で「あなたがたは、先には自分の罪過と罪によって死んでいた」とある。一般
に「罪過(パラプトーマ)」は外に現れた悪行のことを言い、「罪(ハマルティア)」は
内なる悪心・悪い性質のことを指す。かつてはこの世のならわしに従い、悪霊に従
い、肉とその思いの欲するままに従って歩き、神の怒りを受ける者であった。
この指摘にあてはまらない人、「私は関係ない」と言える人は一人もいない。人間
の罪の起源は、神との約束を破り、自分が神のごとくになろうとしたことであったことを思い起こしたい(創世記3:1~13)。その結果、人間が持ってしまうようになった性質が、ここで指摘されているものなのである。 
罪赦された罪人である私たちは、今もなお自分の弱さ、罪深さに直面させられることがある。その時は、神様に背いて離れていることがどれほど悲惨な状態であったことかを深く自覚する機会にもなり得る。私たちは神の前で必要かつ健全な恐れを持ち、謙遜である必要がある。

2.恵みによる救い(4-9)

 罪の恐ろしさを自覚するほど、救いの喜び、ありがたみはより鮮やかなものとなる。4節の「あわれみに富む神」は、「おお、神は何とあわれみに富んでおられるでしょう」とも訳される。「救い」は神のあわれみ、大きな愛によって与えられた。私たちは今、キリスト・イエスととともによみがえらせていただいている。キリスト・イエスにあって賜っている神の恵みの富は、絶大である。
 この恵みの絶大さの前に、人が誇り得ることは何もない。自分の力で、自分に何か良きものがあったから獲得できた救いでは全くない。恵みによって、信仰によって救われたのである。このことを深く受けとめて感謝をし、与えられている富がどれほど大きく、豊かなものであるかを知っていく者とさせていただきたい。

3.良い行いのために(10)

 10節にある「作品」は「工作品」とも訳される。 私たちは良い行いをするために造られている。そもそも神が被造物を、また人間を想像された時に言われた言葉は「神は見て、良しとされた」「はなはだ良かった」(創世記1章)である。堕落をした罪人であった人間が救いをいただいてからの歩みは、本来の良い状態に戻っていく歩みとも言える。その歩みの中で、神は私たちに「良い行い」を備えてくださっている。これは、神によって与えられた新しいいのちの本質のあらわれである。
良い行いの方向性としては、神を愛し隣人を愛することに集約されるが、キリストのために生きる(Ⅱコリント5:15)、和解の務めに生きる(Ⅱコリント5:18)とも語られている。キリストが地上に来て十字架にかかってくださったのは、私たち一人一人の救いとともに、人と人との間にある隔てが取り除かれて一つとなるとなるためでもあった。キリストにならう私たちは、世界に罪が入って分断されたものに和解がもたらされて一致が与えられるように、そこに神の国が成就するよう仕えるために、召されているとも言える。
 ある説教者が、「現代の文化人の病気の最たるものは、劣等感である」と語る人がいることを紹介していた。競争やストレスが激しく、様々な声が内外から聞こえてくることで、私たちの自己理解は混乱しかねない。しかし私たちが神の作品として造られており、神様の大きな愛と恵みによって救われて、生かされていることを受けとめていきたい。そして神の絶大な富が内に与えられていることに気づかせていただき、神が用意してくださっている良い行いを実践させていただくものでありたい。

(問1)救われる前の私たち(人間)は、どのような状態でしたか(1-3)
(問2)神様が与えてくださった「救い」とはどのようなものですか(4-9)
(問3)私たちに何のために造られ、救われたのでしょうか。そのことと自分の現実とを照らし合わせてみて、思うことはありますか(10)。