金 言
「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。」(ピリピ1:27~28)
説教題 「共にあっても離れていても」
聖 書 ピリピ1:27~30
説教者 井上義実牧師
7月に続き8月も船橋栄光教会の礼拝で、ご用ができ感謝。7月はコロナウイルス感染拡大の中で、神殿での礼拝を待ち望んで歌われた巡礼者の歌、都もうでの歌(詩篇120~134篇)に特別な意味を感じていることを話した。都もうでの歌から、詩篇126篇が開かれてきた。またこの期間、新約聖書ではパウロの獄中書簡に特別な思いがある。獄中書簡はエペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモンの4書になりローマの獄中から書かれたと言われる。パウロはローマの獄中で各教会の信徒たちとは引き離されていた。離れていても彼らに対する熱い思い、教会への導きは手紙の中に残されている。今、私たちはなかなか会うことができない状況にある。離れていても主にあって一つであると言う真実を獄中書簡から受け止めていきたい。
Ⅰ.キリストの福音にふさわしく
今日はピリピ人への手紙を最初から詳しく話さないが、1章の頂点、ハイライトとなるのは21節「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」である。パウロは自分の信仰を21節で表明した後に、27節「あなたがたは」とピリピの信徒たちに心を向ける。キリストの福音に相応しい生活をするようにと勧めている。まず、一つの霊に堅く立ちなさいと言う。教会にあっても、個々人の背景や考え方は違う部分も多い。しかし、聖霊は一つである。聖霊は全てを越えて一つとなすことができる。福音の戦いのために、一つ心となれとある。戦いの目標は神様の勝利がこの世になされることである。ペンテコステの出来事を思い起こす。それまで弟子たちはバラバラであったが、聖霊によって一つとなり、福音の前進のために一つ心で戦った。この時が教会の始まりであり、今も変わってはいない。聖霊が私たちを結び合わせ、神の国の拡大という使命によって一つとなるのである。
Ⅱ.戦いの勝利者にふさわしく
戦後75年、現代日本の教会に目に見える戦いはあまりなかったと思える。しかし今、目に見える敵ではなく、目に見えないウイルスとの戦いが始まった。この時、ピリピ教会にとって、敵対する者は目に見える存在だった。イエス様を十字架に付けたユダヤ人たち、ローマ皇帝を崇拝させようとする支配者たちがいた。イエス様を主とする教会が迫害を受けることが特別ではない時代であった。彼らの力がいかに強大に見えていたとしても、敵対する者の滅びが語られている。歴史上、キリスト教に反対し、教会を迫害した国家、権力、組織はどうなったか。皇帝や王に対する崇拝、キリスト教とは異なる思想、信条…、世界的、組織的に個人的にキリスト教は絶え間ない迫害を受けてきた。どの時代にも神様が勝利をとられてきた。私たちの今の戦いは人や組織ではないが、勝利を収められてきた主により頼み、過去のこととして語れる日を信じて進もう。
Ⅲ.キリストにならう者にふさわしく
イエス様の生涯は苦闘の連続であった(イザヤ53章、苦難の僕、参照)。イエス様の地上の生涯の間に、この御方を受け入れることができた人々は多くはなかった。人間の偏狭さ、不信、妬み、うらみ、無関心、あらゆるとが・罪、汚れがイエス様を取り巻いていた。イエス様はそれらに決して左右されずに、真実に福音を語り、十字架への道を歩まれた。イエス様を信じて歩む者も、この世にあって、信仰のゆえに苦しむ道を歩むこともある。そのような時にこそイエス様の守りと導きがある(ヨハネ17:6~19)。この世に対して痛みや苦しみを感じる時にこそ、イエス様が近いことを覚えよう。この世と対立ではない、妥協でもない、必ずや逃れの道、第3の道が備えられていくことを信じる。神様はこの時のために予め人を備えられる御方である。アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、今日に至るまでの神の人の働きがあった。… 今、この時代に私たちがここに生かされている意味がある。
終わりの日が近いこの時、闇は深まり、悪ははびこる。この世の悪は神様が予知されているもの以上には決してならない。やがて、イエス様は義の衣をまとって、勝利の主として来てくださる。私たちも何時も一つであることを覚えつつ、勇気、力、愛をいただいき、この世界にあって生きていこう。