金 言 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(13)

説教題 「極みまで愛されて」
聖 書 ヨハネ15章12~16節
説教者 長谷部裕子師

 中学生の頃、習いたての英語でも部分的に理解できる洋楽の歌詞で、好きになってよく聞いた曲にサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」があります。その歌詞の中で「Like a bridge over troubled water I will lay me down」和訳は、「荒れた海に架かる橋のように 僕がこの身を投げ出そう」でした。友が困難にあったなら、自分の身を投げ出してでも友を助けるというと友情を歌った慰められる歌詞に胸打たれたものでした。そのときは十字架の本当の意味もまだ知らずに、聖書にはそれが歴史上の事実として書かれてあることを知ったのは、ずっと後年のことでした。

1. 神の大きな愛に生かされて (12~13)

 神が愛そのものと知ったのは、聖書を読んでからでした。カトリックのイエズス会竹内司祭は、新約聖書が書かれたギリシャ語で愛と言う言葉は、エロス・フィリア・アガペーが区別されていると言われます。「エロスとは自分の中にはまだ満たされていないものがあり、それを求めようとする欲求をエロスとして考えて、フィリアとは、哲学で「友愛」、友の愛と訳されます。アガペーは、先ほどのエロスとは向きが逆のものです。自分が何かを求める、自分のところに何かを持ってくるというよりも、自分が与えるということです。たとえ相手が何かをしてくれなくても、ひたすら自分が与える。これがアガペーである」と言われました。新約聖書にエロスは使われていません。
そう考えると、イエス様が十字架上で人間に示されたのは、ご自身を与え尽くす愛・アガペーの愛の極みでした。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5:8)十字架の背後は父なる神様の大きな愛で、覆われています。
ヨハネ13章~17章は、イエス様が最後の晩餐の席上で弟子たちに向けてお別れの言葉と祈りが綴られています。イエス様は15章で十字架をしっかりと見据えた上で、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(13)とおっしゃられたのだと思うと、それだけで胸が熱くなります。

2. 親しみをこめて友よと呼ばれる喜び (14~15)

イエス様は弟子たちに「あなたがたも互に愛し合いなさい。」(12)と語っています。キリストの愛は無私の愛、無償の愛です。イエス様は「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。」(ルカ6:32)と教えます。見返りや報酬を期待しないで、不愛想な人や自分に無関心な人、敵対心を抱く相手でさえ、主イエスを思い互いに愛し合うのです。
イエス様は「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(14)と言われました。では私たちはもはや自分を「キリストの僕」と呼ぶ必要がないのか。もちろんそうではありません。イエス様は弟子たちの足元にひざまずき、彼らの足を洗い、これを模範として私たちに示されました。私たちは僕として仕え続けながら、同時に友でもあるのです。私たちは御父のご意思を知っているので、無知ゆえに服従を強いられる僕ではないのです。主に愛され友となった僕です。イエス様の心を知りその愛を信じ、喜んで神様に仕え自由に生きる僕です。

3. 行って実を結ぶ者へ (16)

 ある先輩牧師のお話しが心に残っています。彼は大学で聖書のサークルを始めました。そこへ一人の女子学生が入って共に聖書を学び、イエス様の十字架と復活を信じて救われました。そのサークルの仲間は、卒業した今でも年毎に同窓会を開くそうです。今でもそのとき救われた女性は、彼のことを「命の恩人」と呼ぶそうです。でも正しくは私たちの命の恩人はイエス様でしょう。イエス様は命をかけて私たち一人ひとりを罪の泥沼から救い出されました。
イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16)と言われました。神様の選びの基準は世のそれと全く違い、優秀だからとか品行方正だからではありません。ただイエス・キリストの十字架と復活の恵みとそれを信じる信仰によるのです。そしてご自身が選んだものを「立て」るのです。(「任命する」新改訳2017)
神様の私たちに対するご目的は「行って実をむすび、その実がいつまでも残るため」です。この15章で主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」(1)と言います。ぶどうの木につながる枝は実を結びます。その実とは互いに愛し合う愛の実りであり、友のためにいのちを捨てるほどの愛に生きよという任命です。私たちは選ばれ、立てられ(任命され)、愛のわざに出かけていくのです。