金言
「そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。」(24:29)

説教題 「エマオ途上の弟子たち」
聖 書 ルカ24:13~32
説教者 中島秀一牧師

 今日の聖書箇所は「エマオ途上の弟子たち」としてよく知られた箇所です。多くの有名な画家がこの箇所を題材にしています。バロック時代を代表する、カラヴァッジヨやレンブラントは「エマオの晩餐」と言う題で、食事の場面を描いています。私は「エマオのキリスト」という主題で共に恵みを味わうことにいたします。

Ⅰ 弟子たちに近づかれるキリスト

 イエス様が復活された夕方、二人の弟子が失意の中でエルサレムから東へ11㎞程あるエマオという村に向かっていました。エマオとは「温かい井戸」という意味があります。その一人はクレオパと言う名前でしたが、もう一人の名は記されていません。弟子と記されていますが12弟子ではなく、それ以外の70人の弟子であったと思われます。彼らはその道中において、イエス様の受難から十字架の死に至るまでのことを、互いに語り合い、論じ合っておりました。するとそこにイエス様が近づいてこられ、弟子たちと一緒に歩いて行かれたのです。素晴らしい光景ですね。
 彼らはイエス様が十字架にかかって亡くなられたので、失望と落胆の中に落ち込んでいたのです。その二人に復活されたイエス様が近づいてこられたのです。ああ、何という素晴らしいことでしょうか。私たちも今、日本だけではない、世界中の人々がコロナのの脅威に怯えています。終息の目途が全く見えません。いつ感染するか、重篤な状態に陥るか、大きな不安と恐れが漂っています。しかし幸いなことに、イエス様はそのような状況の中にあなたや私にも近づてきて下さっているのです。そして共に歩いて下さっているのです。
 しかし残念なことに彼らは「目がさえぎられて」、イエス様を認めることができなかったのです。「さえぎられる」とは、イエス様と弟子たちとの間に、両者を遮断する「何ものか」が入ったことを意味しています。それは物体ではなく、精神的なもの、霊的なものを意味しています。彼らはイエス様を「一人の旅人」としては認識することができたのですが、それが「イエス様」であるとは認めることはできなかったのです。つまり、さえぎられた目とは肉眼ではなく、霊的な目だったのです。
 復活された日の早朝に、マグダラのマリヤは墓に出かけました。マリヤはそこにイエス様が立っておられるのを見たのです。しかし、それが「イエスであるとことに、「気がつかなかった」(ヨハネ21:14)のです。しばらくイエスと話している間に、イエス様が「マリヤよ」と呼ばれました。そこでマリヤはその方がイエス様だと分かったので、「ラボニ、先生」と叫びました。
 復活されたイエス様の姿は生前のイエス様とは異なっていましたから、弟子たちがイエス様を認めることができなかったのは無理もないことでした。しかし、マリヤは「イエス様の声」を聞いた時に、それがイエス様だと理解することができたのです。
 ここにマリヤと弟子たちの霊性に違いがあることが分かります。そこで、改めて「目がさえぎられて」という意味、即ち弟子たちの「目をさえぎっていたものは何」かということを突き止めなくてはなりません。あなたとイエス様の間に入って、イエス様を見失わせているものは何かと言うことです。彼らの「目をさえぎった」ものは物理的なものではない。彼らの関心が霊的な問題とは全く異なるものに向けられていたことが分かります。
 イエス様はペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて、祈るためにてゲッセマネの園に行かれました。そして彼らに「わたしと一緒に目をさましていなさい」(38)と依頼されました。「目をさます」と言うことは新約聖書の中で23回、四福音書に10回も出て来ます。そのすべてが十字架と再臨に関係しています。
 そのあとイエス様は「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26;39)と祈られたのです。
 その後、弟子たちのところに行かれると弟子たちは眠っていたのです。そこでイエス様はペテロに対して「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と(マタイ26:41)と注意されました。
 イエス様は「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らえることがないようによく注意していなさい。~人の子の前に立つことができるように目をさまして祈っていなさい。」(ルカ21:34~36)と言われました。
 ここでイエス様が指摘されていることは、「目がさえぎられて」とは、眠った状態であり、「放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っている」ことを意味しています。
 イエス様は「歩きながら互いに語り合っているその話はなんのことなのか」と弟子たちに話しかけられました。彼らは「悲しそうな顔をして立ち止まりました。そしてクレパオが、今日の朝に起こった出来事を整然と語りました。
 その要点は「ナザレのイエスのこと、預言者だったこと、祭司長や役人たちによって十字架につけられたこと、救世主・メシヤとして期待していたこと、墓は空であったこと、天使が現れて『主は生きておられる』と告げたこと」などをイエス様に告げたのです。
 弟子たちの持っていた情報は百点満点の内容でした。彼らの「キリストの死と復活」に対する信仰告白は、立派なものでした。しかしそれだけでは彼らの「さえぎられた目」は「開かれなかった」のです。「悲しそうな顔、暗い顔」は「燃えるような心」には変わらなかったのです。いかに「キリストの十字架と復活の事実」を知的に知ったとしても、人は変わらないのです。大切なことはその事実を「信じ、受入れる」と言う信仰です。従って彼らの「目がさぎられて」いた原因は「不信仰」の一語に尽きるのです。

Ⅱ 聖書を語られるキリスト

 クレオパの話を聞かれたイエス様の第一声は「ああ、愚かで心のにぶいために、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(25~27)のでした。
 聖書の一貫したメッセージは「救世主(メシヤ)の預言とその成就」にあります。その預言は主として旧約聖書い記されています。またその成就は「キリストの十字架と復活」によって実現しました。それは主として新約聖書に記されています。神はそのメッセージを伝えるために、ひな型としてイスラエル民族を選ばれ、その歴史を通して伝えられたのです。そこには一貫性と統一性があります。ですからイエス様も「聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです。
 聖書はイエス様の苦難について次のように記しています。
 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。}(イザヤ53:5)
 「 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(詩篇16:10)
 「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」(詩篇22:1)
 「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」(マタイ16:21)
 二人の弟子たちは、聖書を余り読んでいなかったようですね。「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」ことの理由は、「聖書に目が開かれていなかった」ことによるわけです。
 ダビデは「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩篇119:11)と歌っています。

Ⅲ 一緒に泊まられるキリスト

 弟子たちに聖書を説きあかされたイエス様は、エマオの村に近づいた頃、先へ進もうとされました。その時、弟子たちはイエス様を「しいて引き止めた」(29)のです。そして「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮れになっており、日もはや傾いています。」と懇願しました。イエス様は弟子たちの求めに応じられて「彼らと共に泊まるために、家に入られた」のです。ああ、何という素晴らしい光景でありましょうか。
 英国スコットランドの牧師であり、讃美歌作家であったヘンリー・ライトはこの時の情景を作詞しました。新聖歌336番「日暮れて闇はせまり」(讃美歌39)です。今日、皆さんと一緒に歌った歌です。原題は「Abide with me」です。彼はこの詩を死を目前にして、告別の歌として残したと言われています。作曲はウイリアム・モンク、彼は沈み行く太陽を眺めて、霊感を覚えて10分で作曲したと言われています。
 「日暮れて やみはせまり わがゆくて なお遠し 助けなき 身の頼る 主よ、共に宿りませ」
 もし、弟子たちが「しいて引き止め」ていなければ、取り返しのつかない事になっていました。イエス様は決して意地悪をされたのではありません。人間側の執拗な渇望を求めておられたのです。
 「求めよ、そうすれば、与えられる。捜せ、そうすれば、見出す。門を叩け、そうすれば あけてもらえる」のです。(マタイ7:7)
 どうか私たちも、復活されたイエス様に、50日後、降臨して下さった聖霊様に対して「主よ、共に宿りませ」とお願いしようではありませんか。

Ⅳ 共に食事をされるキリスト

 イエス様は二人の弟子たちと共に宿屋に入られ、食卓につかれました。給仕が食事を運んできます。するとイエス様は「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」のです。
 この情景を私たちは何処かで見たことはないでしょうか。そうです。それは、イエス様が十字架にかかられる三日前に弟子たちと食事を共にされた場面です。私たちはその場面を「最後の晩餐」と呼んでいます。
 この場面はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されています。この「最後の晩餐」は、現在の聖餐式のひな型です。本日の「エマオの食卓」の中に、聖餐式のひな型を見る人もいます。
 彼らはこの最後の晩餐に同席していません。ですからその場面を思い出して「イエス様」だとわかった訳ではありません。
 イエス様だとわかった直近の状況は「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開かれて、それがイエスであることがわかった」のです。しかし、彼らは「道々お話しになったとき、また、聖書を説き明かしてくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と表現しています。
 ここでわかることは、弟子たちが最初にイエス様に出合った時から、パンをさいて一緒に食事をするまでの交わりの中で、イエス様に対する理解が深められて行ったと思われます。イエス様の話し方、配慮、雰囲気、知識、権威等などを通して、宿屋における親しい、落ち着いた環境の中で、食事を共にしたことが最後の決め手になったのではないでしょうか。
 改めて、聖餐式の有り難さを痛感しています。礼拝がネット礼拝になったので、受難週の聖餐式も中止になりました。
 聖餐式について聖書は次のように記しています。
 「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。」
 (第一コリント11:23~25)
 聖餐式は洗礼式はキリスト教会の二大礼典です。聖餐式はキリストの十字架の贖いのみ業を記念することにあります。記念するためにはキリストの贖いに対する生きた信仰が必要になります。聖餐式はその信仰を象徴するものとしての代々の聖徒たちから受け継いできた礼典です。今、私は一日も早く、コロナウイルスが終息して礼拝が守られること、そして聖餐式が施行されるを心から願っています。
 しかし、私はもう一つのことを教えられています。そのヒントは次の言葉にあります。
 「家憲・我と我家とは共に主に仕えん。
 1.我家の主人はキリストなり、
 2.食事の度毎に見えざる賓客あり、
 3.談話の度毎に沈黙せを聴き手あり」
 主にある兄弟姉妹、あなたやあなたの家族の毎食事において、賓客であるイエス様が同席しておられることを意識して下さい。あなたがたの食事の席が聖餐式とは別個なものではありますが豊かな恵まれた時間となることを信じています。
●エマオのキリストは、弟子たちと共に歩かれるだけでなく、一緒に泊まられました。
●さえぎられていた弟子たちの目を開かれました。
●悲しそうな弟子たちの顔を燃えるような心に変えられました。
●身体を養うだけの食卓が、賓客を迎えた豊かな食卓に変えられました。
 「イエスは生きておられる」。私たちも復活のキリストに出合うことによって、喜びと希望に満ちた人生を歩む者とさせて頂きましょう。