金 言
「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」(ルカ6:36)

説教題 「父のように」
聖 書 ルカの福音書6:32~36
説教者 井上賛子師

レンブラントについて。彼は弟息子と非常に近い人だった。彼は自信家で、女性関係や金銭的にも甘く自信家で贅沢を愛し、社交的な人であったが周囲の人には冷淡で無神経だった。彼の成功と人気、評判、財産は長く続かず、彼の生活は悲嘆、不幸、波乱に満ちていく。家族を次々に失い、彼の人気・評判も落ち経済難に陥る。50代前半頃、転機を迎え彼は心に平安を見出すに至り、芸術活動にも大きく影響した。彼は人生を恨むことをせず、内面に向き合っていく。その後も家族に相次ぎ不幸が起き、彼自身が亡くなる時も、貧しく孤独の中で亡くなった。悲惨で困難な数々の出来事の中で、最高傑作を生み出したのだった。多くの苦悩を味わった彼が行き着いたのが、慈愛に満ちた老いた父、そして慈愛の象徴である光に包まれた両手である。

1.理解を超える愛

①罪を思い出さない 「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背き(そむき)の罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ 43:25)私たちは自分の罪を記憶している。神は「あなたは、あなたの罪を思い出さない」と語っておられない。神だけが赦し忘れることができる御方。神に赦されていることによって、私たちは責められることのない記憶を持つことができる。私たちには、私を丸ごと受け止めて愛して下さる神がいる。罪だらけでも、それごと包んで下さる方がいる。私たちは後悔が消せない。傷は簡単には癒えない。しかし父が受け止めて下さることによって、私たちは自分を受け入れ、過去に向き合うことが出来る。

②気前がいい主人  ぶどう園の労働者のたとえ話(マタイ19:30~20:16)「一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した」人たちと同じ賃金を、たった1時間しか働かなかった人たちにも支払ったぶどう園の主人の話は理解しがたい。1時間しか働かなかった労働者たちは、驚き、喜び、この主人の寛大さに感謝したことだろう。しかし、朝から働いていた労働者たちの気持ちは? なぜ、主人は朝早くから働いた労働者たちに最初に支払うことをせず、間違った期待を抱かせたり、苦々しい思いと嫉妬を起こさせるようなことをしたのか。御国はこの世の価値基準とは異なる。時間の長短に関係なく、同じ心遣いを受けることで、ぶどう園で働いた者たちが皆喜ぶと思われたのかもしれない。主人は「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」と言われる。嫉妬する兄息子に「子よ、おまえはいつも私と一緒にいるではないか。私のものは全部おまえのものではないか」といわれる父と同じ戸惑いである。

2.祝宴への招き

①喜びの祝宴への招き 父は弟息子を問いただすこともなく赦しを与え、喜びいっぱいに歓迎し、最上の物を与えた。弟息子のほうは、もう息子と呼ばれる資格はないと思っているのに。命じたことが整い、父は叫ぶ。「食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」この世界のあらゆる苦悩の中から、自分の子が一人で父の家に向かって歩いて来るのを見、神は喜ばれる。

②和解の祝宴への招き 弟息子と兄息子の両方が共に食卓に着くことを父は願っておられる。イエスがこのたとえ話をされたのは、パリサイ人たちや律法学者たちに向けて。取税人や売春婦、罪人とパリサイ人や律法学者が、共に食卓に招かれていることを表す。この祝宴は「和解」の食卓を意味する。自分と違う人を受け入れる、自分が理解しがたい人を受け入れる、隔ての中垣を取り除いていく。世界には何でも2つに分ける二分法の考えがある。こちらが光ならあちらは闇、正義と悪、神の側と悪魔の側というように。自分たちが神と正義の側にいると思っているならば、和解を拒む冷酷な兄息子と同じではないか。

3.父のように

 この二人の息子と自分を同一視するのはたやすいが、私たちは子ども時代を抜け出して、父のようになりたいという次のステップに上がろう。赦されているだけではなく、赦す者でありたいか。家に迎えられるだけでなく、喜んで家に迎える者でありたいか、憐れみを受けるだけでなく、憐れみを差し出す者でありたいか。私たちは未熟な依存から、責任ある大人として重荷を引き受けることができるか。このたとえ話の意味するものは、人間は罪を犯すけれども、神はそれを赦して下さるというだけではない。自分の弱さに甘んじて、神は私が何をしようとも赦して、私を家に迎え入れて下さると考えているならば、それは福音のメッセージではない。父の家に帰ったならば、父の生き方を引き受け、その似姿へと変えられていくことを願うべきである。父のように、苦悩している人に手を差し伸べ、自分のもとにやって来る人に憩いを与え、神の愛から湧き上がる祝福を差し出そう。