金 言
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)

説教題 「主にとどまる」
聖 書 ヨハネの福音書15:1~11
説教者 井上賛子師

・14章からの告別説教の背景

 14章から語られている対象は、イエス様が父なる神のもとに行くことによって、イエス様をこの目で見ることができない中を生きて行くことになる弟子たちに対してでした。そしてそれは、イエス様が父なる神のもとに行かれた後、聖霊が遣わされることによって誕生する教会へ、私たちへのお言葉でもあります。
 ヨハネの福音書の特徴は、同じ言葉、内容を繰り返すことです。14章の終わりで「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(31節)とあります。この晩餐の席から立ち上がって出掛けて行こう、という意味です。最後の晩餐の場面は14章で終わっています。この14章の終わりと、話としてつながるのは18章の1節です。15~17章には、内容を繰り返しながら弟子たちと共に、聖霊によってイエス様を信じる者とされ、教会に連なって生きる私たちのために語られています。

・ぶどうの木の枝とされている私たち

 何よりも大事なことは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。」(15:5)とあるように、あなたがたは既にわたしというぶどうの木につながる枝となっているということです。あなたがたが努力してこういう人になれば枝になれると言っておられるのではありません。
 新改訳2017では、慣れ親しんだ口語訳の「つながる」という言葉を「とどまる」と訳しています。原語では「メノー」という動詞なのですが、「つながる」、「とどまる」、「~の中にいる」、「宿る」、「住む」という意味があります。

・わたしのことばにとどまる(7節)

 目に見えないイエス様が私にとどまっていて下さる、私がイエス様の内にとどまっていることがどうしたら分かるのでしょうか。私たちは聖書の言葉を通してイエス様とつながっていること、とどまっていることを確信することができるのです。第2コリントに出てくる使徒パウロのように第3の天に挙げられるというような神秘的なことではなく(特別な体験もありますが)、私たちの目の前にあるこの聖書の言葉によって、主イエス様とつながっていることを実感するのです。

・わたしの愛にとどまりなさい (9節)

 イエス様というぶどうの木につながっているとは、イエス様の愛にとどまっていることだと言われます。イエス様が愛のことを語られる時には、「父がわたしを愛されたようにわたしもあなたがたを愛する」(9節)と言われます。イエス様の愛の根源は父なのです。「あなた(父)がわたしを愛して下さった愛が彼らのうちにあり」(17:26)とあります。御父は愛する独り子をこの世に遣わされ、独り子なるイエス様も私たちのために命を捨てて下さった、その愛をしっかり受けとめ、その愛から離れてしまわないことです。幹なるイエス様が枝を切り捨てることは絶対にありません。私がどんな人間であろうとも、父なる神の私に対する愛は何ら変わりません。

・その人は多くの実を結びます(5節)

 神のことばに、愛にとどまるなら、私たちは実を結ぶことができ、イエス様という木から離れてしまったら、私たちは何もできません。イエス様は「自分から何も行うことはできません」(5:19、30)と言われています。私たちと同じ肉体をもち、人としてこの地上で生きて下さったイエス様は絶えず御父におられました。イエス様が御父に寄り頼んで生きられたように、私たちにもとどまり続け、つながって生きるように言われます。
 そして、イエス様というぶどうの木に、「あなたがた」という複数の枝が共につながっており、それぞれの枝が実を結んでいく、ということが語られています。それが教会です。様々な違った枝たちが、イエス様というぶどうの木につながっていることによって実を結ぶのです。イエス様を中心とする一つの群れ、共同体である教会の姿です。ぶどうの木は幹だけでは成り立ちません。「ぶどうの木の価値はどこでわかるかというと、ただその実によってです。…ぶどうの木の価値はただ一つ、良い実を結ぶことにあります。」(バックストン著作集第8巻)

・「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7節)

 私たちが神のことばを受け入れるなら、神は私たちのことばを受け入れて下さるということです。神のことばにとどまり、神の愛にとどまるなら、多くの実を結ぶことができ、その上、祈り願うことは何でもかなえられる、という祈りの世界へと招かれます。これと同じことが14章11節、13~14節にも語られています。注意したいのは、この「何でも欲しいものを求めなさい」というのは、私たちのどんな願い、欲望でも神が叶えて下さる、ということではありません。これは私たちが、神は必ず私たちに最も良いもの、本当に必要なものを与えて下さると信じて生きることがきる、ということです。

 イエス様につながってさえいれば、私たちは実を結ぶことができます。既につながれています。主イエスのお姿をこの目で見ることができないこの世には、私たちをイエス様から引き離そうとする力が様々に働いています。しかしイエス様が「わたしにつながっていなさい、とどまっていなさい」と語りかけて下さっているのですから、私たちはそれにお応えして生きるのです。