金 言
「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳しい香りを献げてくださいました。」
(エペソ5:1~2)
説教題 「神に愛されている子どもとして」
聖 書 エペソ5:1~20
説教者 矢島志朗勧士
エペソ人への手紙では、神の子としての選び、恵みによる救い、教会の一致について語られ、キリストにある歩みの勧めがなされる。5章でもその勧めが続くが、新たに「愛されている子ども」という言葉が加わる。きよい生活、聖霊に満たされた生活は、まず私たちが「神様に愛されている子どもである」という事実から始まる。
1.キリストの犠牲(1-2)
神に倣うこと、愛のうちに歩むことが勧められ、その根拠として、キリストの愛が語られる。キリストが私たちを救うため、命を捨てて、みずからをささげてくださった。それが神に受け入れられる犠牲、芳ばしい香りとなったのである。
神様が私たちを愛してくださっていること。聖書の中心メッセージであり、一貫して語られていることであるが、そのことの自覚、気づき、実感がどれだけあるだろうか。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」(2:4-5a)。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなに素晴らしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」(Ⅰヨハネ3:1a)
神様に愛されているという気づきを深く与えられる時に、私たちの生き方の軸は定まり、隣人への愛と向かっていける。礼拝、みことば、祈りを通じてキリストの愛を思いめぐらし、深く受け取らせていただく習慣を持つようにしたい。
2.光の子どもとして(3-14)
愛のうちに歩むことの勧めの後に、きよさのうちに歩む勧めがなされていく。淫らな者、汚れた者、貪る者が皆、偶像礼拝者であるとの指摘に注目したい。つまり、神様以外の者を拝んですがることで、それらに縛られてしまい、罪の行いが出てくるのである。それはまた、神様への不従順でもある(6)。真の神がどなたであるかという告白に生きることが、いかに大切かを教えられる。
神様はこのように生きることを、「光の子どもとして歩みなさい」と励まし、勧められる。また、「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。」(14b)とも励まされる。すでに光の子どもとされていることの自覚を持つこと、そこから引き離そうとすることばや力にだまされたり、まどわされないように強く勧めているのである。
私たちは実に、自分の本来いるべきところから離れてしまい、自分が何者で、本来何につながって生きる者とされているかを忘れてしまいやすいものである。それゆえに、常にこのような勧めを受け、自覚を新たにさせられ、正されていくことが必要である。
3.聖霊に満たされて(15-20)
光の子どもとしての歩みはまた、聖霊に満たされる歩みでもある。詩と賛美と霊の歌(信仰の歌)を持って互いに語り合い、ともに賛美することが勧められる(19)。聖霊に満たされることで、地上の他のものでは決して得られない、憂鬱や退屈をも癒す、よりすぐれた喜び、より崇高で長く続く喜びをいただける。そして、神様への感謝が生まれる。
聖霊に満たされるということは、自力で獲得するものではない。私たちには、救いの保証として聖霊がすでに与えられている(1:13)。神学者のポール・リトルは著書「信仰生活に必要な教理の学び」で、このように語る。「御霊に満たされるというのは、御霊が生活のあらゆる領域を占領し、導き、支配することを私たちが許容するという意味である。そのようにする時、御霊の力が私たちを通して働くのである。そして私たちに実を結ばせ、私たちの心を喜びであふれさせるのである。・・・聖霊があなたの生活を絶対的に、全面的に支配されることを本当にあなたは願っておられるだろうか。」
神様に愛されていること、光の子どもとされていること、その自覚と喜びはすでに、内にいます聖霊によって与えられている。私たちに必要な応答は、そのことを認め、満たし導いてくださる方に全面的に信頼することである。神様との交わり、教会での交わりの中で、この喜びを共に味あわせていただこう。そして励まし合って、神様に倣う歩み、隣人を愛する歩みへと日々、遣わされていきたい。
(問1)私たちが愛に生きる模範は、どなたでしょうか(1-2)
(問2)光の子どもとしての歩みについて、何が勧められていますか(3-14)
(問3)御霊に満たされる生活とは、具体的にどのようなものですか(15-20)