
聖 句「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 (ルカ13:8)
説教題 「私の足を洗ってくださる方」
聖 書 ヨハネの福音書13:1-11
説教者 栗本高仁師
イエス様が十字架に架かられる前の晩のことです。イエス様は愛する弟子たちと一緒に最後の時を過ごされます。
1)イエス様がしもべのように…?!
イエス様が弟子たちと夕食を食べていると、突然イエス様は席から立ち上がります。すると「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれます」(4節)。何をなさるのかと弟子たちは思っていると、何とイエス様が「弟子たちの足を洗い」始められたのです(5節)。
当時は、立派な靴も舗装された道もありません。裸足でサンダルを履いて歩いていると、とても足が汚れます。そのため、お客さんが来たときは足を洗ってあげるのが習慣でした。しかし、その足を洗う役目は、しもべ(奴隷)のすることでした。その家の中で一番身分が低い人がすることであり、決して先生と呼ばれるような方のすることではなかったのです。
それゆえに、イエス様が足を洗い始められた時、弟子たちはどれほど驚いたことでしょうか。このように、イエス様との最後の晩餐の時は、驚きを持って始まったのです。
2)足を洗うことの意味
弟子たちの多くは、驚きのあまりされるがままであったかもしれませんが、そのような中でペテロという弟子が反応します。彼は他の弟子たちの思いを代弁するかのように「先生である〈あなたが〉足を洗われるのですか!?」と驚きを言い表します(6節)。この時の彼らにはイエス様が足を洗う意味が理解できませんでしたが、イエス様は「後でわかるようになります」とお答えになります(7節)。
当然ペテロはその意味がわからないため「決して私の足を洗わないでください」と言います(8節)。するとイエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言われます(8節)。ペテロは純粋にイエス様との関係を保ちたいと思っただけでしょう(9節)。しかし、このことばには非常に大切なことばです。この時のイエス様の足を洗う行為が、単に彼らを労うためだけのことであれば、「関係がなくなる」というのは不思議なことです。つまり、イエス様が「足を洗われた」ことは非常に意味のあることであったのです。
それではどのような意味があったのでしょうか。そのヒントは、これが行われたタイミングです。イエス様は、十字架に架かられる前夜に、あえて彼らの足を洗われたのです(1,3節)。それは、これからイエス様が十字架で何をなさろうとしているのかを表すためです。つまり、弟子たちの「足を洗う」という行為は、イエス様が弟子たちのために十字架に架かり、彼らの「罪を洗いきよめる」ことを意味していたのです。それゆえに、もし足を洗ってもらうことを拒むなら、イエス様との関係がなくなり、罪を洗ってもらうことができなくなる、と言われたのです。
3)愛しぬかれたイエス様
この時のイエス様の「洗足」は、最初に見たように非常に驚くべきことでした。それと同じように、いやそれにも増して、イエス様が十字架で私たちの「罪を洗ってくださった」ことは、筆舌に尽くしがたいことでした。それは、神の子であり、全く正しい方であるイエス様が、「苦難のしもべ」(イザヤ53:4-6)として十字架で苦しみにあわれたためです。
「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。…主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」(53:5-6)
私たちの罪の汚れは、どれだけ私たちが善行を積み上げても、きよめる
ことはできません。それほどに罪は私たちの全身を支配する恐ろしいものです。それゆえに、全く罪のない方の犠牲が必要であり、その打ち傷のゆえに、私たちの罪が赦され、きよめられるのです。
ここにイエス様の「愛の極み」があります。「彼らを最後まで愛された」とあるように、イエス様は私たちを愛し抜いてくださったのです(1節)。どうぞこの愛を受け取り、私たちもイエス様にこの罪を洗っていただこうではないでしょうか。
