
聖 句「しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。」(ルカ9:45)
説教題 「繰り返す失敗の中で」
聖 書 ルカの福音書9章37ー50節
説教者 栗本高仁師
イエス様こそが正真正銘の「キリスト(メシア)」であることが、山の上で明らかになりました(9:28-36)。使命を成し遂げる十字架と復活に向かって、着々と準備がなされてきましたが、弟子たちはどうでしょうか。
1)曲がった不信仰
イエス様と3人の弟子たちが山から下りてくると(37節)、一つの問題が浮上していました。大勢の群衆の中からある父親がやって来て、叫びます。霊が、彼の一人息子に取りついてなかなか離れようとしなかったため、弟子たちに霊を追い出してもらおうとしたのですが、彼らはできなかったのです(38-40節)。それゆえに、彼はイエス様に息子を見てやってください、と願い出ました。
弟子たちはすでにイエス様から「すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を」授かっていました(9:1)。そして、実際にその権威を行使することもできました(9:6)。しかし、この一人息子を癒やすことができなかったのです。ここに非常に対照的な姿を見ますが、その原因は何であったでしょうか。それは、イエス様が「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆かれているように(41節)、能力の問題ではなく、信仰の問題であったのです。どう不信仰であったのかということは書かれていませんが、確かに言われていることは曲がっていたということです。十字架に架かられるキリストをまっすぐに理解できない今(44-45節)、彼らはイエスの働きを継承することができないのです。
私たちにとって大切なことは、イエス様をまっすぐ受けとめることではないでしょうか。イエス様の生き方・価値観を曲げることなく理解していくように招かれています。
2)イエス様の価値観からずれている弟子たち
この後、まさにイエス様の価値観を悟っていない弟子たちの姿が露呈されていきます。まず、彼らは「だれが一番偉いかという議論」をしていたのです(46節)。つまり、彼らはイエス様の弟子であるがゆえに、これからイエス様が王(メシア)として、この世界を治めるとき、自分たちも良い地位につくことができると考えていたのでしょう。さらに、この特権意識が、続くヨハネの言動にも表れます。彼は、イエスの名によって悪霊を追い出している人を見たために、やめさせようとしたのです(49節)。つまり、この権威は「私たち弟子たちに」与えられているものなので、「それ以外の人たち」は使ってはいけないという意識があったのです。
しかし、イエス様はこの二つの出来事において言われます。まず、一人の子どもを立たせて「一番小さい者が、一番偉いのです」と、偉大さの価値観を全く逆転させるのです(47-48節)。そのようにして、自らが低くなって誰かに仕える道がメシアの働きであり、またそれが継承する弟子たちの働きであることを教えられるのです。さらに、この働きをするための特権は、12人にだけ与えられているのではなく、あらゆる人々へと広がっていくことをイエス様は願っています(50節)。イエス様の生き方・価値観は、いつでも他者的であり、オープンであることを覚えたいのです。
3)主の忍耐のゆえに
この箇所で書かれていることは、一言でいうと弟子たちの失敗と言えるでしょう。私たちは「いつまで、…あなたがたに我慢しなければならないのか」というイエス様のことばを聞いて、もしかするとイエス様の苛立ちがあると考えるかもしれません。しかし、イエス様はここで別の12人をもう一度選ぼうとはされません。それゆえに、ここでも一人息子を癒やし、また弟子たちの無理解に対しても忍耐をもって諭されたのです。あくまでも彼らを最も近い弟子として、身近に置かれたのです。ここに主の忍耐が表されているのではないでしょうか。そして、ついに彼らのために十字架の道へと進まれるのです。
そのような主の忍耐に支えられて、弟子たちは実を結んでいきます(8:15)。それが現実となるのは、イエス様の十字架と復活の後、聖霊を受けるまで待たなければなりませんでした。私たちも同じように繰り返し失敗する中で、だんだんとイエス様の弟子として成長することができるのです。イエス様がその失敗する私たちと向き合ってくださるゆえに、私たちには希望と慰めがあるのではないでしょうか。そして、失敗を通して、イエス様の心を私たちの心とさせていただきましょう。
