聖 句 「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)

説教題 「イエス様の愛のまなざし」
聖 書 ルカの福音書22章54ー62節
説教者 栗本高仁師

 今年も受難週を迎えました。イエス様が十字架へと向かわれた中で、イエス様の弟子たちはどうであったでしょうか。

1)真の自分の姿が出てきてしまう…

 イエス様は十字架に架かるために、抵抗することなく捕らえられました(22:47-54)。一方で、イエス様の弟子たちはどうであったでしょうか。実は、彼らは皆「イエスを見捨てて逃げてしまった」のです(マルコ14:50)。それでも筆頭弟子であったペテロだけはひっそりとついて行きます(54節)。彼はこの直前に「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(22:33)と言っていましたが、すでにそのような確固たる覚悟は失われつつありました。なぜなら、彼は「遠く離れて」しかついて行くことはできませんでしたし、まるで自分の存在を消すように、人々の「中に交じって腰を下ろし」ていたためです(55節)。
 しかし、ある召使いの女が彼を見かけて、じっと見つめて「この人も、イエスと一緒にいました」(56節)と言います。ペテロはは咄嗟に「いや、私はその人を知らない」と否定してしまいます(57節)。それも一度だけではなく、立て続けに、イエス様の仲間であることを指摘されるのです(58,59節)。しかし、ペテロは二度目も、三度目も、同じように否定してしまいました(60節)。
 彼は死ぬ覚悟でイエス様についていく、と本気で思っていたことでしょう(22:33)。しかし、彼自身気づいていなかった、心の奥底にある恐れ、弱さ、罪深さが表れてきたのです。私たち人間にとっての十字架の道のりは、まさにそのような真の自分の姿が露呈する場所であるのです。

2)私たちの真相を知った上で、愛してくださるイエス様

 ペテロは、このような自分自身の姿に気づいていませんでした。しかし、実はイエス様だけは知っておられました。
 ペテロが、三度目に否定をしたその瞬間、「鶏が鳴」きます(60節)。そして、ペテロはこの瞬間「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出したのです(61節)。実はペテロがイエス様と一緒なら捕まえられる覚悟も、死ぬ覚悟もできていると豪語した直後に、イエス様はペテロのこの後の行動を予告しておられたのです(22:34)。
 そのため、イエス様は捕らえられて、尋問を受けている中、ペテロがこの場に来ていることに気づいておられました。そして、彼が自分のことを知らないと三度言い、鶏が鳴いた時、イエス様は「振り向いてペテロを見つめられ」ます(61節)。この時、イエス様は果たしてどのような思いで、彼を見つめられたのでしょうか。このところにイエス様の心情は書かれていませんが、イエス様のペテロへの眼差しは、決して彼を責め立てるようなものではなかったでしょう。なぜなら、イエス様はペテロの裏切りを予告する前に、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈」られたからであります(22:32)。その祈り心をもって、ペテロがこの後回復できるように、愛のまなざしを向けられたのではないでしょうか。
 イエス様は私たちの真の姿をご存知の上でなお、愛をもって私たちを見ていてくださるお方です。それがどれほどの慰めでしょうか。

    3)イエス様の愛のまなざしに支えられて

     ペテロはイエス様のこの愛のまなざしを、この時には十分に受けとめることができませんでした。自分の本当の姿を目の当たりにした今、その場に居合わせることができず、泣き崩れてしまったのです(62節)。しかし、聖書を見ていくと、ペテロはもう一度立ち上がり、救い主イエス様を伝える中心メンバーとなったことがわかります(使徒の働き)。このように挫折から回復できたのは、紛れもなくイエス様ご自身の祈り、そして愛とあわれみのゆえであったです。
     私たちも大きな挫折、失敗、もう立ち直ることができないと思えるような出来事に直面することがあるかもしれません。そして、そこから回復するのに時間がかかることもあるでしょう。しかし、そのような苦悩を通して、私たちはイエス様の愛とあわれみを経験して行くのです。イエス様は、挫折の最中にあってもなお、私たちに愛のまなざしを向けてくださいます。私たちにとって大切なことは、その苦悩の中にあって自分自身を深く見つめるとともに、イエス様の愛のまなざしに気づかせていただくことではないでしょうか。