金言「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)

説教題:「新しくされ続ける」
聖 書:エゼキエル36:26~32
説教者:井上義実師

 9月も下旬になって少し涼しく、秋らしくなってきました。船橋栄光教会の秋の働きの祝福をお祈りしています。
 エゼキエル書36章が開かれてきました。少し背景の話をします。預言者エゼキエルの時代は、北王国イスラエルは既に失われ、残っていた南王国ユダも滅ぼされます。南王国ユダの民はバビロンに捕えられた時代になります。神様に選ばれ選民と自負していたユダが、外国に敗れ、国は滅び、奴隷としてバビロンに連れて行かれます。ユダの民はバビロンで絶望以外になかったでしょう。これはゼロになった話ではありません。大きなマイナスになった所から話は始まっていきます。しかし、エゼキエル書は神様からの審判と回復、敗北と希望が記されています。

1)新しい心とされる

 何もかも失ったユダの民に対して、神様は26節には「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。…石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」と言われました。希望を失ったユダの民の心の内に、霊の内に、神様が新しい業をなしてくださいます。石の心から肉の心に変えられるのです。石は固く、冷たく、命はありません。肉は柔らかく、温かく、命を持っています。石と肉には大きな違いがあります。神様はバビロンに捕えられているユダの民の心を、改善、改良ではなく、全く新しく一から造り変えると言われています。
 アブラハムから始まったイスラエルを神様は選ばれ、モーセの時代に律法を授けられました。地の諸国の民と異なり、神様の救いを、律法を通して受けることを約束されました。しかし、イスラエルの民は律法を行う、従うことができませんでした。イスラエルの民が神様の御心に背き、律法を犯した審判が、バビロンでの捕囚です。神様はイご自身に背いた、イスラエルの行いにはもう期待されませんでした。けれども、神様はイスラエルを見捨てることなく、彼らの心を新しく造り変えようとされています。私に従いなさい、あなた方は生きなさいと、神様は願われています。何と大きな神様の愛がここに表されています。

2)新しい恵みを受ける

 バビロン捕囚に至るまでのユダの民はどのような姿であり、彼らは行っていたのでしょうか。今日の聖書箇所からは「汚れ」「飢え・飢饉」「恥辱」「悪」「不義」「忌み嫌うべきわざ」が挙げられます。神様の愛に背く不義、神様が嫌われる偶像崇拝、これらによってユダの民は汚れに染まり、飢えや恥をこうむるまでになりました。ユダの民が神様を軽んじ、自分たちの我がまま、自己中心によって、神様の御心を踏みにじった結果なのです。
 神様はユダの民が、新しく歩み出すために「新しい心、新しい霊」を与え、「石の心」を「肉の心」に造り変えられます。ユダの民への神様からの選びは一方的であり、神様が造り変えてくださるのも一方的な恵みなのです。ユダの民が優れていたから、素晴らしかったからではありません。選ばれた理由は、選ばれた神様ご本人以外には知る由はありません。
「新しい心、新しい霊」によって、ユダの民が神様に従い、神様の定めを守り、彼らは再び約束の地に住み、神様を間近に仰ぐものとされます。約束の地で、豊かな産物をいただいて暮らすことができるようになります。
 回復、復興、新しい神様の業がなされていきます。神様の恵みと憐みがいかに大きなものであるかが、エゼキエル以後のユダの民を通して現され、証しされていきます。

3)新しい神様の宣言

 神様は何と大きな愛をお持ちなのかと驚きますが、神様は32節「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではない」と言われます。神様が、ユダの民に事を行われるのは何のためなのでしょうか。少し前の22節には、「神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。」とあります。
 イスラエルが敗北し、国を失い、敵国の辱めになることは神様の御名が汚されることになります。敵国の民から、イスラエルの神はどこにいるのか、イスラエルの神は本当に生きているのか、イスラエルの神は力がないのかとあざけられることでしょう…
イスラエルの神は、その聖なる御名によって高められ、崇められる御方です。他の神々は、偶像ですから、真の神様と比べようもありませんが、他の神々は人間の欲そのものによって汚れています。真の神様との違いは、愛ということにも、義ということにも表されます。そして、何よりも真の神様は聖いということが強調されています。
 聖なる神様が聖なる民を整えて、御名の栄光を表そうと願われています。それはイスラエルの民がバビロンに捕えられていた、明日はどうなるか分からないどん底の時代です。バビロン捕囚の民に呼びかけられた神様が、今私たちにも、ご自身の御名のゆえに、ご自身の栄光を表そうとおっしゃっておられるのです。

 今の日本の教会の状況はリバイバルではなくサバイバルだと言われています。先進国では、日本が最も宣教が困難な地の一つだと言われています。欧米では、日本は宣教師の墓場とまで言われているそうです。日本の宣教の業はなかなか進みません。しかし、偶像の神に膝を屈めない、真の神様に従う1%の信仰者が綿々と残され続けています。
 私たちはエゼキエルの時代には、まだまだ遠い話であったイエス様の十字架の血潮によって心も、霊も新しくされていますコリント第二5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」。イエス様の救いの恵みの中に生かされています。
 私たちはイエス様の救いによって新しい心で、新しい霊によって、神様に祈り続け、真心からの礼拝を続け、福音の種をまき続けましょう。その先にこそ神様は、大いなるリバイバルが起こされていきます。神様の御名の栄光が私たちを通しても表されて行くことを待ち望みましょう。