
金 言 「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)
説教題 「迷う羊を捜し歩く主」
聖 書 イザヤ書53章6節・ルカ15章4〜7節
説教者 井上賛子師
1)迷う羊としての人間
ヘンデル《メサイア》第26番は、イザヤ書53章6節をもとに、迷う羊に人の姿を重ねて歌います。明るく軽やかに散らばるような旋律は、羊が思い思いの方向へ走っていく姿を表していますが、その背後には「私たちは皆、羊のようにさまよった」という痛みが流れています。羊は群れを離れれば危険に向かってしまいます。私たちも気づかないうちに神様から離れ、自分の思いや判断を優先してしまう「迷える羊」です。罪とは、悪い行い以上に「神様を忘れて自分中心になっている心の向き」のことです。その小さなズレが積み重なり、心の中に不協和が生まれていきます。合唱が「それぞれ自分の道へ向かった」と歌う時、音楽がばらばらに響くのは、私たちが好き勝手に歩きながら、どこか落ち着きを失っている姿そのものです。
2)「しかし主は」――救いの逆転
けれどもイザヤは「しかし主は、私たちすべての咎を彼に負わせられた」と続けます。この「しかし」は希望の言葉です。アダージオになると音楽が一気に静まり、重く深い響きに変わります。神様は罪をそのままにされる方ではありませんが、ただ裁くのではなく、自らその重荷を担ってくださる方でもあります。「彼」とはイエス・キリストのこと。イエス様は十字架の上で、私たちのすべての咎を引き受けてくださいました。それが十字架であり、そこに福音の中心があるのです。
3)良い羊飼いとしてのイエス様
イエス様はご自分のことを「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)と呼び、迷った羊を「見つけるまで捜す」(ルカ15:4~7)と語られました。羊飼いは、迷った羊がどれほど遠くに行ってしまっても決してあきらめません。そして見つけた時、怒るのではなく「喜んで肩に担ぐ」といいます。これは、神様が迷いの中にいる人をなんとしても「連れ帰りたい」という強い願い、深い愛を持っておられることを表しています。
4)ミニ先生の物語
新聞の評論に、小学校で、授業をかき乱していた男の子に「ミニ先生」という役割を与えたところ、彼は驚くほど生き生きとし、クラスの雰囲気も明るくなったという話が載っていました。彼を「問題児」として扱う代わりに、「この子の特性を用いる」という姿勢で向き合った先生のアイデアでした。評論の中では迷える羊のたとえ話が紹介されていました。迷える羊を特別扱いしてでも捜しに行く(特別にケアする)べきこと。そして、クラスの子どもたち(残された99匹の羊たち)もその様子を見て、「自分も困ったときにも特別に扱ってくれるはずだ」と思えると書かれてありました。良い羊飼いは迷った一匹を大切に、特別に扱ってくださいます。また群れの中にいる99匹の羊たちも安心していられる羊飼いとの信頼関係にあるのです。
5)羊飼いのもとへ帰る歩み
私たちが今日できることは、羊飼いのもとに帰ることです。信仰とは、罪のない人が立つ場所ではありません。迷いを経験し、主に捜し出された人が立つ場所です。「主は私たちすべての咎を彼に負わせられた」という言葉には、神の深い決意と愛が込められています。キリストが重荷を背負ってくださったからこそ、私たちは迷った羊のままではなく、羊飼いに見つけられ、群れに連れ帰られた羊として歩き直すことができます。
6)静まるハーモニー
第26番の最後はまるで息をひそめるように静まります。「私たちすべての者の不義を」と静けさの中で歌います。神は私たちの名を呼び、どんな過去も迷いも知った上で、「私はあなたを見つけた」と語られます。
私たちは確かに羊のようにさ迷いました。しかし主は、私たちの咎をキリストに負わせてくださいました。その愛の中に帰り、救われた者の喜びをもって、この方をたたえて歩んでいきましょう。
