詩篇23篇1~6節
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」
(詩篇23:1)
説教題 「主はわたしの牧者」
聖 書 詩篇23篇1~6節
説教者 長谷部 裕子牧師
旧約聖書では本編を知らない人はないと言われる詩篇23篇です。わずか6節の短い詩篇ですが珠玉の味わいがあります。緑の牧場、死の谷、祝いの饗宴と場面を展開しながら、神への絶大な信頼を歌い上げています。
1. 羊を養い導く主 1~4節
神が「羊飼い」であり、イスラエルは羊であるという考えは古くからありました。(創世記48:15)この詩篇はイスラエルの王となるダビデの作と言われます。1~2節はかつての牧童時代の懐かしい思い出を綴った麗しい情景が浮かびます。後半4~5節の「死の陰の谷」「わざわい」「敵の前」ということばも、ダビデの追放と流浪の不遇な体験に通じているように思えます。
元来羊は無力で無知な動物であり、羊飼いの養いと世話と守護がなければ、厳しいパレスチナの自然環境では到底生きられません。人も同様で愚かで弱い生き物なので、神の加護がなければ正しく歩むことができません。詩人は自分を一匹の羊にたとえて主なる神が羊飼いであると喜び、すべての必要を満たしてくださるお方として信頼しています。それは2節の牧場と水などの肉体の健康を保つための身体的な必要もさることながら、3節では「魂をいきかえらせ」とあり精神も飢え渇くことなく豊潤となると神をたたえています。わたしたちの魂は霊的な食物である神のみことばに教えられ、神を信じる者をいつもみこころにかなう正しい道に導いてくださいます。
人生は順調な時ばかりでなく、突如として死の陰を歩くようなことがやって来ます。そのときも羊には頼もしい羊飼いがいて、むち(襲いかかる猛獣や盗賊と戦う武器)とつえ(ステッキで羊の教導にも使用)を駆使して守ってくれます。羊の姿は「一寸先は闇」である人の歩みも同じです。しかし詩人は決して恐れません。神が共におられるからです。神が人生の難所や最後の死に至る時もとこしえにあなたと共におられるとは、なんという慰めでしょう。
2. 供応者としての主 5~6節
次に供応者としての主のお姿を5~6節に見ます。供応とは饗応とも書き、客を宴に招きもてなすことです。パレスチナの国では、強盗に襲われ追われた旅人が天幕に逃げ込んで来たなら、天幕の主人は旅人をかくまい保護をする習慣がありました。主人は保護するだけでなく豊かな宴をふるまい、旅人は満腹になります。詩人は「わたしのこうべに油をそそがれる。」(5)と歌います。油とは喜びの表現です。
わたしたちには霊の糧であるみことばがあります。教会はみことばの食べ物を供応して、神はわたしたちを満ち足りさせてくださるので、主をたたえる喜びの賛美が溢れ流れます。たとえ教会の扉の向こう側には苦難や厳しい世界が待ち構えていようとも、わたしたちは恐れません。礼拝や祈祷会でみことばを存分にふるまわれて心と魂は満腹になり、主にある喜びの賛美を高らかに歌い、礼拝から一週間の旅路に主と共に遣わされていくのです。
6節には十分に力をつけた旅人が出立します。敵は旅人を追いかけますが、主のいつくしみと恵みもまた伴い(追いかける/新改訳2017)ます。それは「わたしの生きているかぎり」(6)追いかけ続けてくださいます。やがて旅が終われば「とこしえに主の宮に住む」のだと望みを胸に道を進みます。
詩篇23篇を通して見ると「わたし」が重ねて使われていることにお気づきでしょうか。繰り返しこと15回。さらに1~3節までは「主は」と呼んでいますが、4節以降は「あなた」というより親しい関係に変わります。わたしたちの神は、世のすべてのものを造られた創造主という遥か遠くの存在でありながら、その一方でイエス・キリストのゆえに「天の父なる神」と身近にお呼びできるお方です。ここに「わたし」と「あなた」という親密な間柄が成立します。23篇では祈りや訴えの声は途絶えて、ひたすらに神への感謝と信頼を歌い、それによって与えられた平安と喜びが響き渡ります。
【中高生の考えるヒント】
1.この詩篇では羊飼いを誰で羊は誰と言っていますか。(1)
2.死の陰の谷を歩むときもなぜわざわいを恐れることがないのですか。(4)
3.神がいつまでわたしと共にいてくださると約束されますか。(6)