イザヤ40:1~11
「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。」(イザヤ40:9)
説教題 「新しい呼びかけを聞く」
聖 書 イザヤ40:1~11
説教者 井上義実牧師
2019年を迎えて、船橋での最初の礼拝御用をさせていただく。この年もさらなる祝福を祈る。イザヤ書40章の冒頭が開かれた。ここからイザヤ書後半が始まる。前半は背信のイスラエルへの裁きであるが、後半はイスラエルの回復の恵みが語り出されて行く。また、イザヤ40章はヘンデル・メサイアでは繰り返し引用される聖書箇所である。
本論)
Ⅰ.神の民の再生
イザヤ書40章の原文は最初に「慰めよ」という言葉が命令形で2回繰り返される(メサイア2番、テナー叙唱)。イザヤの時代もイスラエルは信仰を失い、罪に沈んでいた(イザヤ1:2-6)。イザヤ書前半の39章までは罪の裁きが語られ続けている。「慰めよ」という言葉こそが転換点である。赦しと回復を神様が宣言されている(1節)。今まで背き続けてきた神の民の神様による再生である。3-5節は700年後の荒野のヨハネが現れる預言であるが、主の道が真直ぐに備えられると語られている(メサイア3番、テナー詠唱)。曲がった道が真直ぐに、高低のある地が平らにされる。人の心が神様に向けられ、整えられることを表している。私たちは自分の心を造り変えられない。自らの過ち、不義、罪、汚れを認め、神様の前に進み出ることによって魂に新生、再生がなされる。私たちも新年を迎え、改めて神様の前に隔てのない、真直ぐな者として歩み出よう。
Ⅱ.神の民への牧会
神様は私たちの内面を神の民として相応しく整えられる。同時に私たちの外面の必要を日々備えてくださる。11節には「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」とある(メサイア20番、主は牧者のごとく)。メサイアで取り上げられているようにイザヤの預言は成就していく。イエス様は、羊のために命を捨てる、良い羊飼いであると言われた。イザヤの時代後、エルサレム陥落、バビロン捕囚、バビロンからの解放、エルサレム再建、中間時代の苦闘があって、イエス様は降誕された。曲がりくねった高低のある地をイスラエルは歩むが、神様の歴史は真直ぐに進んでいく。私たちの目には曲がっているかに見え、先が見通せなくとも、先立たれる牧者は見通されている。この御方に委ねて行こう。
Ⅲ.神の民の宣教
神様は私たちの内側を神様に相応しく整えてくださる。神様は私たちの外側の必要も満たしてくださる。その上で、9節には神の民の宣教が出てくる。宣教者は高い山に登り、強く声をあげて「あなたがたの神を見よ」と叫ぶ。何と真直ぐな言葉かと思う。宣教の動力は、新しくされ、造り変えられ、罪から義に、汚れからきよきに変えられた、神様の愛への感動である。私たちは、私たちを動かす感動を失っていないだろうか。私たちは先に述べたように、罪、汚れから離れて新しく生きているなら力を得る。私たちの基本の生活は御言と祈りによる神様との交わりである。この交わりによって、共におられる主に励ましを受け、聖霊の光に照らされる。私たちの生活の中で必要な人に、必要な時に、必要な言葉を語る備えができている者となる。その時に間に合う者となろう。「山に登りて告げよ」の思いを持って日々歩もう。
この年、神様によって日々新たにされよう。神様に養われ、満たされて、宣教の力をいただき、変わることのない主を証ししつつ歩もう。
【中高生の考えるヒント】
1.イスラエルは慰めが必要でした。なぜ、慰めが必要だったのでしょうか?
2.羊飼いは羊を養います。神様はどのように私たちを養われますか?
3.神様の恵み、神様の救いを伝えたい人はいますか?