金 言 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ 53:5)

説教題 「神の子羊」
聖 書 イザヤ書53章1~6節
説教者 長谷部裕子師

イースターの一週間前、今日は「受難週礼拝」です。この日曜日は棕櫚の聖日とも呼ばれます。福音書によれば(マルコ11:7以下)キリストが弟子たちと共に、最後にエルサレムの町に入って来られたとき、エルサレム市民や子どもたちは歓迎の気持ちを表すために、なつめやし(棕櫚)の枝を手に持って振りながら、キリストを迎えたと記されています。エルサレム入場を果たしたイエス様は十字架の死が間近に迫って来ました。今朝読まれた箇所は、イザヤ書52章13節から53章全体を第四のしもべの歌の一部です。主のしもべがなぜ苦難を受けなければならなかったのでしょう。それは、一言で言うなら私たちの罪のためでした。神の真理を悟りもせず、誤ったメシヤ理解が真の救い主を十字架に追いやる愚行を引き出したのです。

1. 誰が救い主と信じ得たか

1節の「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。」の「私たちが聞いたこと」とは神の救いに関する良い知らせのことです。このすばらしい知らせを誰も信じなかったのです。なぜでしょう。イエス様のお姿が、彼らが想像していたメシヤ像とはあまりに食い違っていたからです。彼らが期待して願い待ち望んだメシヤとは、イスラエルをローマの圧政から開放してくれるメシヤでした。政治的に軍事的にイスラエルを復興に導く国のリーダー的存在、それが彼らのメシヤ像でした。それなのに、イエス様はそれとはかけ離れていました。それゆえ彼らはイエス様をメシヤと受け入れる事ができませんでした。マタイによる福音書では16:21からイエス様は十字架を予告して、自分が殺されると言います。第二回目は17:22、そして三回目は20:17と繰り返されます。十字架で殺される弱いものがメシヤであるはずがないと、人々はイエス様から離れていったのです。人々が求めるのはいやし、力、繁栄、富、成功、祝福でした。しかしそこには本当の救いはありません。私たちの救い主は馬小屋で生まれて貧しい家で育ち、神の国のために労苦を惜しまず、ついには十字架による救いを完成されたのです。つまり神の救いとは私たちが考えているような類ではありませんでした。人の真の幸福は神様から罪赦されて義となり、神様のもとに立ち返って和解して平安を頂くことです。現代でも救い主を信じようとしないのは同じ理由からです。しかしあきらめずに種をまきます。(伝道の書11:6)

2. 侮られ尊ばれない救い主

人々がイエス様をメシヤと信じがたかったのは、弱々しさだけではありません。2節に「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」とあるように、イエス様には見とれるような姿も輝きもなく見栄えがしなかったのです。私たちはどこかで聖画やキリストの映画に見るような凛々しい好男子を想像していませんか。実際はそうではなかった。福音書によれば、ローマ兵がイエス様をとらえようとしたとき、誰がイエス様なのかわからなかったので、手引きしたユダがその人に口づけをしました。イエス様は一緒にいた弟子たちと見分けがつかないほど、ごく普通の人だったのです。イエス様は、内側は愛で満たされ神の栄光が輝いていましたが、見た目は目を引くような容姿、いわゆるイケメンではありませんでした。いうなれば期待外れでした。3~5節を福音書に照らして読むと、イエス様は周囲の人々から侮られ酷い仕打ちを甘んじて受けます。しかし主の腕はこのようなしもべに現れたのです。

3. 世の罪を取り除く神の子羊

イザヤはこの預言をキリストが生まれる七百年前に告げたのですから、十字架を見て預言したのではありません。しかしまるで十字架のイエス様を見た人が語ったようなリアルな描写です。彼がこれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためでした。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)イスラエルをでは人の罪が赦されるために、小羊が代わりに殺されました。その血によって人々の罪が赦されました。小羊は贖いの力を表す動物でした。イエス・キリストは神の子羊となって死なれたのです。バプテスマのヨハネはイエス様を指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言われました。イエス様こそあの過ぎ越しの小羊のようにほふられることにより、全世界の罪が取り除かれたのです。福音書に出てくるイエスの十字架は私のためであり、あなたがたすべての罪を取り除く身代わりのためでした。11節で 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」とあり、イエス様は十字架によって愛をもって救いを完成されました。わたしたちは神様が成し遂げられた救いを信じ感謝して、おのおの受け取れば良いのです。

【中高生への考えるヒント】

(問1) イスラエルの人は、イエス様をメシヤと信じましたか。
(問2) イエス様がメシヤと思われなかったのはなぜですか。
(問3) あなたは十字架であなたの身代わりに死なれた方を救い主と信じますか。