金 言 ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネ9:3)

説教題 「神のみわざが現れるために」
聖 書 ヨハネ9章1~11節
説教者 長谷部裕子師

今日の聖書箇所では目の見えかった人が、イエス様の奇蹟によって目が見えるようになります。ところで、今まで見えなかったのに、あることがきっかけで、急に物事の本質がよく見えて分かるようになることを、「目から鱗が落ちる」と言います。「この目からウロコ」の出典は聖書からです。使徒行伝9章でサウロの目は突然見えなくなりますが、その目をアナニヤがサウロの上に手をおくと「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。」(使徒9:18)とあります。ヨハネ9章でイエス様は目の見えない人のことを、神のみわざが現れるためですと言われたことは、既成概念を破る意表を衝いた視点であり、まさに「目から鱗が落ちる」思いでした。

1.生まれつき目の見えない人

1節に「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。」とあります。現在は障がいがあってもパラリンピックのように、その人たちが活躍し注目される機会があります。しかし聖書の時代は、目が不自由な人は、道行く人に施しを求めることが生きるための手段でした。イエス様と弟子たちは、不自由な姿で路上をさすらう目の見えない人に出会います。そこで『弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。』(2)と質問します。この発想は日本人にもよくわかる質問です。それは子どもに障がいがあるとか病弱に生まれると、本人もしくは両親や祖先の責任ではないかと、不運を因果と見る習慣があります。「親の因果が子に祟り」は世俗の根強い思想です。それは旧約聖書の中にもその思想があります。十戒には「わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出20:5)があり、旧約聖書に父祖の罪は子に及ぶとあるので、ユダヤ社会では伝統的にそう教えられてきました。

2.神のみわざが現れるために

弟子たちのあけすけな質問に、イエス様は聞いた人は誰もが驚くような答えをされました。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(3)生まれながらにして目の見えない人には、大半の人はお気のどくなというネガティブな印象しか持ち得ません。しかしイエス様のお考えはまったく違いました。全ての人はその人の生おいて、神様の栄光を何かのかたちで現すために、わたしたちは存在しているのです。これが人間を創造された神様の真実な視点です。それは健康や容姿など人の見た目、何かができるといった能力がある無しに関わらず、人間存在のそのものが優れてすばらしいのです。それなのに、多くの人は他者との優劣の比較に忙しく、人間からの評価に惑わされ一喜一憂しています。わたしたちひとり一人を個性的に造り「あなたはすばらしい」と心の底から愛してくださる、神様のみこえを聞こうともしません。
クリスチャンは病弱や障がいなど人間としては不都合な生を受けても、神様は常にわたしに良きものを与えると信頼してゆくなら、「毎日の生活は神様の祝福のうちにある生」であると考えて歩めます。今日の聖書箇所はそのことを言っています。

3.心の目を開かれたイエス

生まれつき目の見えない人はイエス様に言われた通りに、目につけられた泥をシロアムの池で洗い流すと、不思議なことに肉眼の目は見えるようになりました。ところが以前から、生まれつき目の見えない人を知る人たちやパリサイ人は、事実を見てもイエス様を何度も疑い、神がみわざを行ったことを信じようとしませんでした。目が見えるようになる奇蹟を体験したこの人は、肉眼だけでなく心の目である霊的な目もだんだん開眼していきます。それに反してパリサイ人たちの霊的な目は頑なな心は闇に閉ざされて、イエス様がどなたであるかがわかりません。かつては目の見えなかった人は霊的な目が開かれます。イエス様を「預言者」(17)と言い、さらに「神から来た人」(33)と認め、最後には「主よ、信じます」(38)と告白して救いを受け取りました。神様は全ての人をご自身の栄光のために用いてくださいます。そのためにも、救い主を受け入れ心の目を開いて、真実なみこえに聴き従いたいです。

(問1)弟子たちは生まれつき目の見えない人をどう思いましたか。
(問2)それに対してイエス様は生まれつき目の見えない人をどう見ましたか
(問3)神様はあなたに何を願っておられますか。