金 言 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(4:7)

説教題 「信仰の戦いに勝利した人々」
聖 書 Ⅱテモテ4章5~8節
説教者 長谷部裕子師

 11月の第一聖日は、召天者記念礼拝です。今日はパウロの最後の書簡であろうとされるテモテへの第二の手紙の最後の4章を開きながら、「信仰の戦いに勝利した人々」と題してお話を致します。パウロは福音を伝えるために、各地に伝道旅行に赴きます。迫害によって何度も投獄されました。そしてこの手紙もローマの獄中で書いています。(1:8、16、2:9)牢獄でパウロは愛弟子テモテに遺書ともいえるこの手紙を送り、気の弱い彼を励ましています。(1:6~7、2:1)パウロは教会の中に良くない風潮が入り込み教会が荒らされる時代が来るのを予期していました。(4:3~4)なんとかパウロ自身が出かけて行ってそれを食い止めたいが、囚われ身では如何ともしがたい。そこで自分に代わって、弟子のテモテを教え諭し、教会の内側を揺るがす危機を免れさせようと苦心をしています。

1. 信仰者の心構え(5)

 パウロはテモテに伝道者の心構えとして、力強く訓戒します。まず「何事にも慎」むことです。「神がわたしたちに下さったのは…力と愛と『慎み』との霊なのである。」(Ⅱテモテ1:7)とあります。慎みの霊の対極に位置するのは、大言壮語することでしょう。(Ⅱテモテ3:2、ヤコブ3:5)教会で活発に自由な議論が交わされることは概ね健全なことです。説得力のある意見は用いられますが、能弁な人こそ「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ2:3)とあるように、他人の意見を謙遜に聞く慎み深さを身につけたいものです。(Ⅰペテロ4:7)
次に「困難に耐え」ることです。信仰による戦いやキリストの奉仕のために、困難が生じることがあります。私たちは困難を恐れて避けたいと思います。しかし信仰の戦いに勝利した人の証しを聞くと、心は信仰に立ち返り奮い立ちます。信仰者自身が弱くても、より頼むお方は万軍の主なので、私たちはいたずらに困難を恐れる必要はありません。さらに「伝道者のわざをなし」です。先月10月31日は宗教改革記念日でした。ルターが提唱したのは「聖書のみ」「信仰義認」そして「万人祭司」です。キリスト者はみな主に召された伝道者です。あなたによって福音を知るチャンスを得る方は必ずおられるのです。よきおとずれを告げる足として、「自分の(示された)務めを(それぞれが)全う」しようではありませんか。

2. 信仰者の心意気(6~7)

 パウロは自分の死期が近いと感じ取っていました。(6)「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(7)と言い切れる、パウロの最期の宣言は圧巻です。そこに信仰者の最高峰らしい彼の心意気といさぎよさを感じます。「戦いをりっぱに」は、「勇敢に」(新改訳2017)とも訳され、不屈の精神を伺わせます。また「走るべき道のりを走り終え」(新改訳2017)の言葉には、マラソンランナーがゴールに向けてひたすら地道に走る姿を思わせます。パウロは主のためにささげたいのちをかけて、最期まで「信仰を守りとおした」と振り返ります。パウロのようにいのちがけの伝道で、波乱万丈の信仰生涯を送った人は稀です。しかし、キリストに救われた各々が、与えられた道のりを忠実に走り信仰を守って、地上での最後の時にこう叫ぶことができたらそれで良いと、私は思います。

3. 信仰者の褒賞(8)

 キリスト者は地上の働きを終えて、やがて天のふるさとへと帰ります。人は誰しも年齢を経ると外なる人は古びて壊れていきます。それとは反対に内なる人が輝きを増すのです。(Ⅱコリント4:16)だから死は恐れるに足らないのです。そして、ついに私たちは天国に神の国の民として迎えられるときが来ます。テモテに書き送った手紙でパウロは「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」と信仰者の褒賞について語っています。この世での働きは、得てして報いは少なく、むしろ信仰のゆえに周囲から迫害を受けたり、煙たがられたり、不本意なことも少なくありません。それでもなお「何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全う」していくとき、天においてそれらすべてが、報われる日が間違いなくやってくるのです。パウロは死が間近に迫っていると知ってもなお信仰が弱ることなく、「主の出現(再臨)」を信じて待ち望んでいました。

私たちも召天者記念礼拝に際して主のお約束を思い起こし、(信仰の)「戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」いです。

(問1)この手紙は誰が誰にどんな目的で書かれましたか。
(問2)あなたに信仰の戦いはありますか。それはどんなことですか。
(問3)キリスト者が死を恐れなくて良い理由はなぜですか。