金 言 「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ4:36)
説教題 「天の収穫は近い」
聖 書 ヨハネ4章35~38節
説教者 長谷部裕子師
秋は○○の秋と呼ばれることが多いシーズンです。たとえば「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」そして「収穫の秋」などです。教会暦では今年の収穫感謝祭は11月28日です。そこで今日は収穫にちなんだ聖書のお話しです。
1. 目をあげて畑を見なさい
イエス様をサマリヤのスカルの井戸に一人残して、弟子たちは町へ食べ物を買い行きます。井戸に戻ってきた弟子たちは、イエス様が現地のサマリヤ人女性と語らっているようすを目撃します。このサマリヤの女は長年待ち焦がれたメシヤが目の前におられるイエス様であるとわかって、感動を抑えきれずに夢中で町に呼びかけに走り、ひとめでも見に来るように誘います。女の呼びかけに答えてサマリヤの町の人がぞくぞくとイエス様に会いに来ます。弟子たちにとっては大勢のサマリヤの異邦人が回心するだけでも十分驚きに値するのに、空腹のはずのイエス様が町で買ってきた食べ物を食することなく「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。(32)と言われことでした。弟子たちはそう聞くとすっかり面喰い、自分たちが不在の間にいったい何が起きたのか戸惑います。
弟子たちはそれまでのそれぞれの経験に基づいて世の常識に従って「刈り入れの時期には四か月ある」と思い込んでいました。そこでイエス様は人間の思いをはるかにしのぐ神のお働きを弟子たちに見せようとされます。だから弟子たちに「目を上げて畑を見なさい。」と促します。弟子たちが固定観念や常識にとらわれて、霊的に盲目になっていました。手をこまねいているうちにすでに畑は「はや色づいて刈入れを待っている。」(35)のです。臆する気持ちで人の顔色をうかがってばかりいると、信仰の出番はなくなります。私たちもよく祈ってなすべきことを示されたら、常識にとらわれることなく、信仰者としての矜持を持ちたいと思います。天の収穫の時は私たちが予想している時期よりずっと近いのです。
2.蒔くものと刈るもの
農業がそうであるように主の働きにも、二つの役割と働きがあります。それが「蒔くものと刈るもの」です。普通刈るものはその収穫を手にして初めて益を手にした実感が喜びにつながるわけです。ところが、イエス様は「すでに、刈る者は報酬を受け」(36/新改訳2017)と言われています。つまり神様は先取りの報酬を約束しておられるのです。報酬は「永遠に至る実」(36)です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)にあるように、救われた人はもれなく与えられる最大の宝それは「永遠のいのち」です。誰かに救いに立ち会う特権は、私たちクリスチャンにとって、何ものにも代えがたいひとときで、刈るものはその度に永遠に至る実という報酬を受けます。しかし刈るものは地道に蒔くものの存在があったからこそ、収穫の喜びに立ち会えることを忘れてはなりません。
「涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5~6)のように、蒔くものが刈り取りの喜びを味わうときもあれば、ここで主が言われるのは『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』(37)ということわざが示すもうひとつの道、それが協働伝道です。そうすることで「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(36)となるのです。働きの違いはあっても、「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(エペソ4:5)あきらめずに、互いの労苦を惜しみなくたたえながら励まし合い、共に収穫を待ち望み祈り、主のあわれみを求めましょう。
3. 労苦の実にあずかる
神様の救いは、イエス様の十字架の死と復活によって授かったいのちに新生することです。つまり神様の罪人に対する愛という福音の種は、すでに蒔かれているのです。刈り入れのための種はもう蒔かれているのです。4章ではイエス様の話を聞いたサマリヤの女だけでなく、大勢のサマリヤの異邦人が救われます。それゆえイエス様は弟子たちに向かって「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。」(38)と言われました。ある人の救われるために、背後ではどれほど多くの祈りと献身がなされていることでしょう。
(問1)イエス様が言われた「刈り入れ」とは何の収穫をさしますか。
(問2)蒔くものが蒔くのは何ですか
(問3)人はなぜ労苦しないで、その実にあずかれるのですか。