金 言 
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)

説教題 「礼拝の原動力」
聖 書 ローマ12:1~2
説教者 井上義実牧師
 コロナ禍にあって教会とは、礼拝とはと考えさせられる。今年の説教のテーマの一つとして「礼拝」、8月末には神学校アウトリーチという働きをお願いし、川原﨑晃師に「礼拝学」の学びを組み込んでいた。主の備えに感謝します。
今日はローマ12:1~2が開かれてきています。ローマ人への手紙は構造が大きく3つに分れます。第1部は、1~8章で完全な救いについて、第2部は、9~11章はパウロの同族イスラエルの救い、第3部は、12~16章で信仰生活の実際、実践が述べられています。Cf.ローマ人への手紙の3部構造は、魚の3枚おろしに似ています。… 12章からが信仰生活の実践に当たります。信仰生活の最初に礼拝が出てくることは、礼拝こそが信仰生活の第一、中心であるからです。

Ⅰ.神様の愛ゆえのあわれみ

 最初に「神のあわれみによって」とあります。礼拝は私たちの意思、力もあるでしょうが、人間の側の何かを越えて、神様のあわれみによってささげられるということです。神様があわれみ深い御方なのは聖書全体が示しています。あわれみという言葉を探って行くと、意味合いとしてはいつくしみという言葉が近いですが、恩恵、恩寵という古い言葉に行き当たって行きます。出エジプト34:6には「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、」とあります。礼拝から考えてみますと、私たちが神様と出会う前は礼拝からは遠かった者です。礼拝には相応しくなかった者でした。そのような私たちに、神様はイエス様をこの世に送られ、十字架の贖いの死によって、私たちを神の子とする道を開いて下さったのです。神の子とされて、私たちは礼拝の民に変えられた者です。神様の前に、立場、身分が変えられたのです。へブル4:16には「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」とあります。神様のあわれみがあるからこそ、私たちは礼拝に与ることができるということは私たちの礼拝の基盤です。礼拝は贖われた者の特権ですが、高慢にならないように決して忘れないでいましょう。 

Ⅱ.神様の愛によるすすめ

 続いて「あなたがたに勧める」とあります。敬虔主義の聖書学者である17~18世紀のベンゲルは、「モーセは命じ、使徒は勧める」と言っています。モーセに代表される律法は命令を守り従うこと、使徒に代表される福音は私たちの自発的な応答を求めています。決められて、強いられてではなく、喜んで礼拝をささげる姿勢が勧められています。それでは、喜んで礼拝をささげる動力は何なのでしょうか。それは、先にお話しましたように神様が私を愛して下さり、私に救いを成就して下さったという事実にあります。1ヨハネ4:10には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」とあります。喜んで礼拝をささげる力は、神様の愛に感謝する、神様の愛に対する応答です。新約聖書で見るならばレギオンに取りつかれていた男、マグダラのマリヤ、エリコのザアカイなど多くの人々に見ることができます。この私はどうでしょうか。私たち一人一人もそうです。 …律法によって認められることは規定を守ることにあります。それでは、守っていればよいという、真心が伴わなくなりやすいものです。福音が求めているものは、自分からの応答を表していくことなので心を込めることが求められている。私たちは、神様の愛を受けて、救われた者として、真心からの礼拝を常にささげるものでありましょう。 

Ⅲ.神様の愛に応える供え物

 喜んでささげる礼拝は、喜んでささげる供え物が伴います。礼拝での祈り、賛美、献金に始まり、ほぼ全てにささげる要素が含まれています。ここにはさらに進んで「あなたがたのからだを」とあります。からだとは肉体という意味を越え、私たちの存在、生活全てを指しています。私たちの普段の全てが礼拝に結びついているということです。自らをささげた礼拝者の存在は、周囲の人々に感化を与えていきます。Cf.信仰が明確でなかった頃に出会ったご高齢の兄弟。私はこの方がと出会ったから、今ここにあるという方の一人です。一人の真実な礼拝者、命がけの礼拝者の存在がどれほど周囲に良い感化を与えるでしょうか。
… この礼拝によって私たちは新たにされ、御心に生きていくことができます。2節「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」。週毎の礼拝は習慣、儀礼ではありません。私たちが新たな思いをもって臨んでいく時に、私たちを新たに造り変えて、御心に生きる者へと導くのです。

今、礼拝をささげる環境は厳しい時です。このような時にこそ、神様の愛に立ち返りつつ、開かれている礼拝を喜んでささげていきましょう。