金 言 「主はあなたを守って、すべての災いを免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」(詩篇121:7~8)
説教題 「とこしえまでの守り」
聖 書 詩篇121:1~8
説教者 矢島志朗勧士
敬老感謝の礼拝を持つことができ、心からの感謝を覚えます。長い人生、信仰の旅路を歩んでこられた先輩方の存在と言葉から主の真実を教えられ、また信仰者としての姿勢を身をもって教えられることが多い。そのような信仰に至らせてくださる主の守りについて、みことばから教えられていきたい。
1.エルサレムへの旅の中で(1~6)
詩篇121篇は、都のぼりの歌、エルサレムへの巡礼の旅の中での歌である。「私は山に向かって目を上げる」(1)、この山はシオンの山のことである。「わが助けは、どこから来るであろうか」(2)との問いがあり、すぐに「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と語られる。これは巡礼の旅をする中で山を見上げた時に、喜びのうちにわき出てきた告白である。
主の助けとは、具体的にはどういうことなのか、「あなたの足の動かされるのをゆるされない」(3)とある。きちんと歩けるようにしてくださるということである。「まどろむこともなく、眠ることもない」(4)ともある。神様はうとうとしてしまったり、寝てしまうということがない。きちんと起きて、私たちを見てくださっている。
また、主の守りについても語られる。「右の手をおおう陰」(5)とは、利き腕である右手を保護してくださるという意味がある。「昼は太陽があなたを撃つことなく」(6)とは、熱射病といった病気になることはないということある。古代では月の光も人を狂わしたり、病気の原因になると考えられており、暑い地方では夜の旅が普通であったので、月の光にさえ危険を感じていた。「夜は月があなたを撃つことはない」とは、そのような中でも主が守ってくださるという告白である。
「わが助けは、どこから来るのか」という問いがあるということは、「自分には助けが必要だ」という自覚と、本当に助けがあるだろうかという人間としての不安な気持ちもあったと思われる。そう思うからからこそ、神の助けをより実感させられ、この告白にいたったのであろう。
私たちの信仰の歩みで、自力で何とかなってしまうと思っているのではなく、「私には助けが必要だ」「神様の助けがほしい」ということを覚えさせられているとしたら、それは幸いなことである。そこから謙遜、祈りが生まれる。日々どのように主に助けを求め、実感しているであろうか。何げなく当たり前と思うことの中にも、実は主の深いあわれみ、助けあることを思う。主に目を開かれて、そのことに気づきやすい者とさせていきたい。
2.とこしえの守り(7,8)
「主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」(8)とある。主の守りがエルサレムへの巡礼の旅路のみならず「とこしえまで」つまり「永遠に」というスケールへとシフトしている。「出ると入るとを」とは、普通は日々の生活や仕事のことを指すが、それだけではなく、永遠の守りにまで視線が向けられているのである。
私たちはイエス様の十字架と復活のゆえに罪赦されて神の子とされていて、霊と心と体が守られて、攻められるところのない者にしていただけるという約束が与えられて、生かされている(1テサロニケ5:23)。永遠の、究極の守りが約束されている。その守りは、人生の様々な揺れ動きがある中でも貫かれる。私たちの旅路を永遠の視点から見て「天の御国を目指す人生の旅」と考えてみると、今のコロナ禍においてのみならず、過去・現在・未来、旅路の中でいかに困難や試練があっても、何度も神様の助けをいただいて、少しずつ造り変えられながら導かれていくのである。旅路の中での様々な思いを主の前に注ぎ出し、主と親しく交わる歩みをさせていただきたい。その積み重ねの中で私たちは、確かにこのみことばが真実であることを深く知っていくのである。
みことばに親しみ、祈り、礼拝し交わりの中にい続けること、より深く神の助けが与えられていることを知り、神様ご自身を知っていく者とさせられていきたい。神の家族として共に「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と告白する歩みを続けていきたい。
(問1)今までの歩みで、あるいは日常生活の中で、どのように神様の助けを実感していますか。
(問2)神様が守ってくださることの根拠は、どこにあると思いますか。
(問3)これからも神様が守ってくださることについて、期待や不安はありますか。