金 言 「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
(Ⅰコリント11:26)

説教題 「完成の日が来るまで」
聖 書 Ⅰコリント11:23~26
説教者 井上義実牧師
 コロナ禍にあって、私たちの教会も礼拝を始めとして活動は厳しい。聖餐式も昨年の待降節第一主日(2019.12.1)以来、持たれていなかい。今日皆様とイエス様の十字架による救いを感謝し、献身の思いを持って聖餐に与ることができ何よりの感謝である。初代教会の聖餐を考える時、Ⅰコリント10・11章は大切である。分派の傾向があるコリント教会に聖餐が語られているのは、聖餐によって一つとされることが重要であるからである。

Ⅰ.イエス様からの直接の継承

 教会とは何かという定義付けの一つとして「正しく福音が語られ、正しく聖礼典が執行される。」(アウグスブルグ信仰告白第7条・要約、1530年)との言葉がある。御言の説教、洗礼式・聖餐式の執行が正しくなされなければ教会とは言えなくなる。今日は聖餐について語るが、パウロは「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」(23節)と言っている。パウロはイエス様に会っていないのに「主から受けた」とまるで聖餐の恵みを直接受け取ったかのように言う。パウロはイエス様昇天後の使徒であり、これは信仰的な意味合いでイエス様に会ったと言っている。私たちも同じくイエス様に会ってはいないが、私たちが与る聖餐式もイエス様の最初の聖餐式、最後の晩餐を受け継いでいる。司式は目前の牧師が行うが、時間・空間を超えてイエス様から受け取る聖餐であると感謝して与っていただきたい。

Ⅱ.イエス様による新しい契約

 聖餐式は新しい契約(25節)とある。それでは、古い契約とは何かであるが、出エジプトの過越しであると言えよう。出エジプト記12章には、十の災いの最後にエジプトの全ての初子が撃たれる恐るべきできごとが起こる。イスラエルの家庭では、一頭の傷のない小羊が屠られ、血はかもいに塗られ、肉は火に焼かれ、過越しの食事とされ、恐ろしい災いから守られた。イエス様の最後の晩餐が、出エジプトの過越しを記念とした食事の席だったことは、神様の深い御旨である。出エジプトの過越しは、イエス様の十字架の贖いのひな型、予表であった。イエス様は過越しの食事を弟子たちと共にされ、パンを裂き、ぶどう酒の杯を取られた。この場面は過越しという旧約の古い契約が、イエス様の十字架という新約の新しい契約に取って代わられるその時なのである。イギリスのW.F.フレミングトンは「この第一回目の晩餐は、全時代の全教会の代表である弟子たちが、そこで第一回の聖餐式にあずかったのである」と言う。それ以降の私たちには、聖餐の度毎に新しい契約が更新されている。

Ⅲ.イエス様が来られる完成

聖書の最も大きな希望は主イエス様の来臨である。悪に対して厳しい戦いはあるが、最終的に主イエス様は勝利され、永遠に至る新天新地が現される。主の救いの完成であり、私たちは永遠の栄光に与る日である。イエス様が来られる日まで「主の死を告げ知らせる」(26節)とある。イエス様の十字架の死と復活こそが私たちの全ての基でなる。私たちの罪と死を清算してくださり、きよく生きる者に変えられた。私たちも与ることのできた救いが、終わりの日に完成する。その日まで私たちは主の恵みに生かされながら、共に聖餐を守り続けていく。この聖餐は閉じられたものではない。全ての人が招かれている。ただ一つ、イエス様が十字架に釘付された手足・肉体、そ流された血潮を信じて、受け入れるという要件がある。皆が共に聖餐に与ることが私たちの祈り、願いである。そのために私たちは「主の死を告げ知らせる」者なのである。

 私たちは語られる御言である説教によって生かされ、見える御言と呼ばれる聖餐によって強められて行く。このことは教会のみの働きである。説教と聖餐の場である礼拝こそが私たちの信仰生活の中心に置かれていくものである。