金 言 「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神の住まいとなるのである。」(エペソ2:21~22)
説教題 「一つとされて、共に建てられる」
聖 書 エペソ2:11~22
説教者 矢島志朗勧士
コロナ禍が続いている。不自由さ、困難、寂しさなどが以前としてある一方で、はからずもこの状況下で目が開かれて、気づかされた主の恵みも少なくはない。エペソ人への手紙の基本的なメッセージは、私たちはキリストにあって、神に選ばれて大いなる望みを与えられた者であることを確認させ、そして神の子どもとして良い行いをし、成長し続けられるように励ますことである。今朝もまた、みことばによって目を開かれて、強められていきたい。
1.以前の状態(11-12)
神からいかに離れていた状態にあったかを忘れないようにと語られる。「異邦人」
という表現は、非常に軽蔑した言い方である。ユダヤ人たちは本来ならば彼らに与えられている神に関する知識を他国の人々に分かち合うべきであったのに、彼等のことを軽蔑して「異邦人」と呼んでいた。「イスラエルの国籍がなく」(12)とは、民族としてイスラエルが所有していた権利から完全に遠ざけられて、追放されていたいうことである。「約束されていたいろいろの契約に縁がなく」(12)とは、聖なる契約に少しもあずかることのない、何の知識も権利もない状態のことを言う。本当に希望がなく、神のない状態であった。
わたしたちが、どこから救われたのかということ、神から離れていたことがどれほど悲惨で、希望のないものであったかを忘れず、記憶していなければならない。主の前に健全な恐れを持ち、謙そんな者でありたい。
2.キリストがもたらす平和(13-18)
しかし、13節にあるように、私たちは、キリストにあって近いものとされた。「敵意という隔ての中垣を取り除き」(14)とあるが、当時はエルサレム神殿の異邦人の庭とユダヤ人の庭を仕切る壁というものがあった。そこには「異邦人は何人もこの聖域内に立ち入るべからず」というきよめの律法が提示されていたそうである。この壁が異邦人とユダヤ人の実際の隔てであったように、モーセの「数々の規定から成っている戒めの律法」(15)が、人類と神との隔てをなすものであった。しかしキリストが十字架につけられたとき、神殿の幕は裂け、律法の儀式が信者にとって命の道であった時代が終わり、ユダヤ人にも異邦人にも、直接神に至る道が開かれたのである。。「廃棄した」(15)という言葉は、「働かないようにした、力を奪い、無効にした」という意味がある。キリストの十字架によって隔てが取り除かれ、和解、平和が与えられたのである。
自分と神との間を隔てるものがもはや無いとは、なんという幸いではないだろうか。私たちの心の奥にある恐れの大きなものに「拒絶への恐れ」がある。しかし私たちはもはや神に拒絶されることはなく、神と親しく交わることがゆるされているのである。
3.共に建てられる(19-22)
救われた者はもはや、異国人や宿り人ではなく、神の家族となる(19)。以前とは全く立場が変わるのである。使徒と預言者たちという土台(20)とは、使徒、預言者が語ったみことばのことであり、また、イエス・キリスト自身が隅のかしら石でもある。「隅のかしら石」は「要の石」とも訳され、建物が建てられていく上でのまさに要となるものである。
私たちは組み合わされて、主にある聖なる宮として成長する(22)。それはキリストにあってなされることである。キリストが共にいて私たちをつくり変えてくださり、そして神ご自身が内に住んでくださるのである。
コロナ禍にあって、私たちは神の家族として直接会えないことを残念に、悲しく思ってきた。そして、完全なかたちではないが、教会堂で共に礼拝できるように少しずつ戻っていることを心から喜んでいる。何故か。それは私たちのつながりが単に人間的なものではなく、神によって組み合わされて共に成長していくつながり、交わりだからである。私たちは今、その素晴らしさをあらためて教えられている。この恵みを大いに喜び、感謝したい。そして神の家族として共に礼拝すること、言葉を交わすこと、祈り助け合うこと、その中に神がいてくださり、喜びと成長がもたらされることを知り、力をいただいて恵みを証し、キリストの救いを宣べ伝えていきたい。
(問1)記憶すべき以前の状態とは何ですか(11-12)
(問2)キリストによってもたらされたものは何ですか(13-18)
(問3)キリスト者たちは、どのようにして成長していきますか(19-22)