金 言 「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ5:7)
説教題 「もう思い煩わなくても良い」
聖 書 Ⅰペテロ5章6~7節
説教者 長谷部裕子師
わたしたちはコロナ禍になってから、大勢の人が一箇所に集まるいわゆる「3密―密閉・密集・密接」を避けるために、YOUTUBE、ZOOMやLINEなどのツールを利用して、遠隔で集まり始めました。会議はもちろん、礼拝、祈祷会、セミナー、勉強会そして今や聖会までも画面越しです。移動距離がない分便利なのですが、お会いして話す親しさは薄れて、一体感がなくなり少し残念です。果たしてこの状態はいつまで続くのでしょうか。コロナ・ウィルス感染拡大によっていま衛生面で過敏になった人が自粛警察に豹変する、コロナの感染者を差別や中傷するなど悲しい事件が起こっています。経済的に痛手を受けた人たちが失業、倒産、生活苦から、自殺率が上がっています。誰もが考えてしまうのは、いつまでこの不安定な生活が続くのだろうとか、これから世界はどう変わってしまうのかです。コロナ関連のニュースを見ては「もし…こうなったらどうしよう」と考え出すときりがなく、思い煩いは膨らむ一方です。そんなとき心に沁みてくるのが今日のみことばです。(Ⅰペテロ5:7)今日は「もう思い煩わなくても良い」と題してみことばを取り次ぎます。
1. 思い煩わなくて良い理由 7節
備えあれば患(ウレ)いなしとはいうものの、準備できることには限りがあります。想定外のこともあります。しかしみことばは、次のような驚くべき事実を語っています。「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(7・新改訳2017)そうです。わたしたちが準備万端でできなくても大丈夫です。神は私たちを造られただけでなく、わたしたちのことをいつも気遣ってくれるのです。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)見えないけれどいつも私たちを援助してくださる方がおられるからです。
2. 思い煩わないで、なすべき4つのこと
まず「つながる」ことです。思い煩い始めると今大切なことはうわの空、焦燥感が募ります。思い出してください。幼子は親と手をつないでいる時が一番安心できます。それと同様にわたしたちは神の子どもたちですから、いつでも父なる神様としっかりつながっていることで、思い煩うことなく安心できます。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)主とつながるにはみことばに聞き入ることや心に留まったみことばを黙想しても良いでしょう。イエス様は「多くのことに心を配って思いわずらっている。」マルタにこういわれました。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。」(ルカ10:42)あれやこれやと心が千々に乱れたとき、思い出したいみことばです。
次に「いのる」ことです。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」(ピリピ4:6)盲人バルテマイは、弟子たちが黙らせようとするのを振り切って、声の限りにイエス様を「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び求めました。イエス様はバルテマイに聞かれます。「わたしに何をしてほしいのか」彼は自分のたっての願いをかなえてもらえたのです。(マルコ10:46~52)イエス様はわたしたちにも「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれます。だから祈るときには今思い煩っていることや不安など、心にあるままを飾らないで声にして祈るのです。
さらに「あずける」ことです。考えてみてください。旅先で重い荷物を抱えたままでは観光は楽しめません。わたしたちは荷物を泊まるホテルやコインロッカーに預けて手ぶらになると、身軽になり心から旅を楽しむ事ができます。心の重荷になっている思い煩いを神様にあずけること、つまりいっさいを神にゆだねることです。
最後は「信頼して待つ」ことです。イエス様は弟子たちに「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(マルコ11:24)といいました。会堂司のヤイロは死にかかった娘を治してもらうために、イエス様に頼みに行きます。しかし途上で娘は亡くなります。イエス様はヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)と言います。おことばどおりにタリタ、クミと言って子どもの手を取ると、少女は生き返ります。みわざがすぐに始まらなくても、あきらめないで単純にただ信じる者は最後に勝利を得るのです。
3. 思い煩わなくて良いもう一つの理由 6節
最初に思い煩う必要のない理由は、神が私たちのことを心配されているからといいました。理由はもう一つあります。わたしたちの営みは、すべてが「神の力強い御手の下」(6)で起きることなのです。だからへりくだって「自らを低く」するのです。安心してください。そうすれば「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです。