金 言 「それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。」(エペソ3:6、7)

説教題 「共に神の恵みを受けて」
聖 書 エペソ3:1~13
説教者 矢島志朗勧士
 自分は何者か?神様から何が与えられているのか?自己理解と、、聖書が語っ
ていることの間にはギャップがあることが往々にしてある。「み言葉が開かれると光
を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩篇119:105)とあるように、みことばの光
に照らされて気づかされて、認識を正されていく、その繰り返しである。
エペソ人への手紙を通じて、キリスト者たちに与えられている恵みの豊かさが語
られ続けている。みことばに聴き続け、一歩一歩、その理解を深めさせていただきたい。

1.キリストの奥義(1-6)

パウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人」(1)と語る。実際にこの手紙がかかれている時、パウロは牢獄にいる囚人であったが、自分を真に支配しているのはキリスト・イエスであることをはっきりと自覚していたのである。パウロは自分があたっている務めは「恵みの務め」だと語り、「わたしは啓示によって奥義を知らされた」(2)と語る。奥義とは、ユダヤ人も異邦人も、福音によりキリスト・イエスにあって、共に神の国をつぐ者、共に神の約束にあずかる者となるということである。
 隔てられたもの同士が一つとされることが、当時の時代ではいかにあり得ない大きなことであったかを思う。この時代まで決して明らかにされることはなかった「奥義」であると語られる。そもそも、人間が罪を持つことで生まれたものは、神と人との隔てであり、また人と人との間の隔てである。キリスト・イエスにあって一人一人の罪が赦されて、隔てがなくなって一つとされる。パウロはこのことがいかにすごいことであるかを知ってほしく、力説する。私たちは、目に見える状況にいかに弱さや難しさを覚えても、この約束にあずかる者であるという事実に立ち続けなければならない。人間の力のみでつくろうとする世界に広がっていくのは「分断」であるが、「共に一つのからだとなる」と宣言するみことばに、立たせていただきたい。

2.恵みの務め(7-11)

パウロが「聖徒たちのうちでもっとも小さい者」(8)という謙遜な自己表現をしていることに注目したい。その表現と対極にあるように彼は「キリストの無尽蔵の富」というものを自覚していた。これを異邦人に伝え、また奥義にあずかること、すなわち、一つとされることがどういうことなのかを伝えるのが、パウロの務めであった。10節の「神の多種多様な知恵」とは「神の豊かな知恵」とも訳される。救いの恵みにあずかっている私たちは、神様の豊かな知恵を知らされ得るのである。このことにどれだけ目が開かれているだろうか。常にキリストにつながってこの恵みにとどまり、知恵をいただき続けて歩んでいきたい。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに 惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)

3.神に近づく(12-13)

キリスト者たちは、神に大胆に近づくことがゆるされている。何でも話せる関係である。キリストが隔ての壁を取り除いてくださったからである。心を神様に注ぎだしているだろうか。遠慮をしていること、隠していることはないだろうか。聖書の人物たちの祈りにも教えられて、大胆に神に近づく者でありたい。
13節の「患難」とは、パウロがまさに牢獄にいることであった。患難がむしろ光栄だというのである。何故か。一つは、患難の中でキリストの苦しみにあずかり、キリストが共にいてくださるというのをより深く知れるということがあるだろう。もう一つは、神の方法とタイミングで、実際にこの患難からの勝利が与えられるということもあるだろう。
今、苦しんでいることがあるかもしれない。その意味がよくわからない時もあるだろう。しかしその只中で、キリストの臨在を見出していきたい。すでに豊かな富が与えられていて、キリストにあって一つとされ、神の国をつぐという希望が与えられていることを深く覚えたい。教会の交わりで、今与えられていること、示されていることを言葉にして分かち合い、祈りを共にしていこう。主の恵みが豊さかを共に知り、希望を共にしていきたい。

(問1)キリストの奥義とは何でしょうか(1-6)
(問2)パウロが恵みを受けたのは何のためですか(7-11)
(問3)患難に対する態度は、どのようにすすめられていますか(12-13)