金言
「また言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう』。」(ヨハネ1:51)

説教題 「人の思いを越えて」
聖 書 ヨハネ1:43~51
説教者 井上義実牧師

私は子ども時代から好奇心が強い方だと思う。初めて出会うものは楽しみである。行ったことのない場所、初めて乗る路線などは興味津々である。海外や、遠い場所でなくとも構わない、小さなことを見つけ出して喜んでいられるので幸せな人間だと思う。イエス様の宣教の始まりに当たって、イエス様と初めて出会った人たちはどうであっただろう。

1)ピリポがイエス様に出会った

 ヨハネはピリポを取り上げる。他の福音書には詳しく出てこない。ピリポはガリラヤのベッサイダ出身の人であった。バプテスマのヨハネの弟子であったがイエス様に従い、ナタナエルにイエス様を紹介した(45節)。12使徒の一人に選ばれた(マタイ10:3他)。5千人の給食の際にイエス様から尋ねられる(6:5)、イエス様の十字架が近づきギリシャ人が訪ねてきた時に間に入る(12:21)。最後の晩餐でイエス様に質問をしている(14:8)。ピリポはまずイエス様を素直に信じた幸いな人である。イエス様をそのままに受け止められる人は決して多くない。また、そのイエス様をこだわりなく人に紹介している。ピリポは人と人の間に立つことができた。信頼される人、親切である人、労を惜しまない人であり、そのような賜物・才能を持つ人であった。

2)ナタナエルがイエス様に出会った

 ピリポはナタナエルにイエス様を紹介した。神様が約束されていた救い主であると言ったが、「ナザレから、なんのよいものが出ようか。」(46節)と答える。ひどい偏見、差別的な言葉である。私たちが自分の郷里をそのように言われたならきっと怒りを覚える。ナタナエルは神の都エルサレムや特別な場所の出身だったのではなく、同じガリラヤ出身である。ナタナエルは素直に信じることのできない心頑なな人であった。しかし、イエス様にとって相手が自分を受け止めたのか、受け止めていないのかは関係なかった。自分を悪くとったとしても、良くとったとしても変わらないものをお持ちであった。「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない。」(47節)と最高の評価をされた。イエス様が、ナタナエルが「いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)からである。これは人からは見えない場所でナタナエルが祈っていたということである。見えないものを見ておられたことにナタナエルは畏敬を感じ、神様の姿を見、「神の子、イスラエルの王」(49節)とイエス様を信じた。

3)私たちがイエス様に出会う

 ナタナエルにイエス様は「もっと大きなことを、あなたは見る」(50節)と言われた。「天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見る」(51節)と続けて言われた。イスラエルの民であれば誰でも知っているヤコブの天の梯子の記事からである(創世記28:10~)。ナタナエルにイエス様が語られたのは、ご自身が天と地をつなぐものであるということである。イエス様の十字架を信じる者は地上にあって、神様と天の御国とつながっていることを示された。ナタナエルはやがて3年後にイエス様の十字架に出会っただろう。そしてこの言葉を思い起こして心に刻んだことは間違いない。私たちもまた、すでになされているイエス様の十字架の前に立っている。イエス様の十字架によって天とつながっている私たちである。夢でも幻でもない神様の愛による事実である。

 イエス様が示された栄光の十字架の元に立ち続ける私たち、仰ぎ続ける私たちであろう。