金 言
「ところが、まだ家は遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」
(ルカ15:20)
説教題 「駆け寄る父」
聖 書 ルカの福音書15:11~24
説教者 井上賛子師
*家出、そして遠い国へ
弟息子は父親に「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」と言った。自分にとって、あなたはもう死んだも同然の存在だ、さっさと本当に死んで財産を遺してほしいと思っているということだ。しかしこの父は、彼の望み通りに財産を分けてやる。すると弟息子は遠い国に旅立った。自分の人生は自分のものだ、自分の思い通りにして何が悪いと思い。
ヘンリ・ナウエンは、中東という背景を考えると、「家出」は一読して感じるよりもはるかに無礼な行為である。自分が生まれ育った家を冷酷に拒絶することであり、共同体で大切に守り通された、もっとも大切な伝統とたもとを分かつことだ。聖なる遺産として代々受け継がれ、手渡されてきた生き方、考え方、行動の仕方から、思い切って縁を切ることである。「遠い国」とは故郷で聖なるものとみなされてきたすべてを無視する世界のことだ、と述べている。
*失われた者
「家」とは父なる神の住まわれる所であり、父なる神の子として共に住む所である。神の「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22)という語りかけを聞ける場所のことである。この語りかけは最初のアダムに命を与え、第2のアダム、イエス・キリストに、そして、同じ声が神のすべての子たちに語られている。この言葉は、私に本当の住まい、本当の安住の地、本当の家を教えてくれる。であるから、家を出るとは、父なる神のもとを自ら離れることである。私たち人間はこの本当の家から家出してしまった者。そして、また何度も家出をするような者なのである。しかし、父は強いて弟息子を家に留まらせることはなさらなかった。愛する子にご自分の愛を無理強いすることはできなかった。あらゆる代償を払うことになっても、息子の命が危険に晒されようとも、家に留め置かなかった、愛ゆえに。私たちは愛されているゆえに、勝手に家を出る。祝福は初めからそこにあるのに、私たちはそこを去りそこから離れ続ける。それでも父は私たちを再び受け止めるために腕を広げ続け、探し求めて下さる。
*孤独を味わう
家を出た息子の行き着いた先とは?父の家から遠くに逃げれば逃げるほど、父の声は聞こえなくなり、この世俗の世界に翻弄され、この世の考え方、価値観に巻き込まれ、人との係わりの中で苦しむ。弟息子は、財産を使い果たした時、周りの人々が少しも彼に関心を払わなくなったのを見て、自分がどれ程失われた存在であるか、はっきりと気づいた。極度の孤独感を味わい、真に失われた者となった。しかし、この孤独感・喪失感こそが、彼を我に返らせるものになった。彼は自分はかくも疎外されていたことに気づき、衝撃を受け、死への道を歩み始めたときに、突然と理解したのである。
*我に返るとは
飢えと孤独の苦しみの中で彼は「我に返って」、自分の本当の姿に気づく。自分が本当に生きる場は父の家だったのに、自分からそれを捨ててしまったために、今のこの苦しみ、絶望に陥ってしまったのである。彼は父の所に帰ろうと決意する。もう父のもとに身を寄せるしかない。しかし今さら帰れた義理ではない。彼はもう父に、愛される資格はない、雇い人として、せいぜいこき使われ、その見返りになんとか生き延びさせてもらうことしかできないと考える。この「我に返って」というところは、弟息子が本心に立ち返って、悔い改めたと語られるところである。が、この「悔い改め」は条件付きで許してもらおうという理解である。この悔い改めは自分の犯した過ち・過去を反省し、心を入れ替えてこれからは父の雇い人の一人としてしっかり働いて生かしてもらおうというもの。これが人間が普通に考える悔い改めである。
*私たちの理解を越える神の愛
ところがこの話は神様が人間の理解を乗り越える方だ、ということを語っている。帰って来た息子を父はまだ遠く離れていたのに見つけ、憐れに思い、駆け寄って首を抱き、接吻したのである。まだ遠く離れていたのに見つけたということに、父がいつも息子の帰りを待っており、一日に何度も、息子が出て行った方を見つめていたことが示されている。息子の方は、「こう言おう」と思っていたことを語り始める。しかし父はそれを遮り、最後まで聞こうとしない。そしてむしろ僕たちに最上の衣類を持って来るようにと命じる。それは彼を大事な息子として、愛する者として迎える、という父の意志表示である。それはもはや人間の常識では考えられない姿だ。完全な、絶対的な赦しである。人間の悔い改めが救いを実現するのではない。悔い改めて以前より少しはまともになろうとすることが信仰なのでもない。私たちのことを、神様がいつも待っていて下さり、駆け寄って迎えて下さり、愛する子として歓迎して下さる、そこに私たちの救いがある。神様の独り子である主イエスがこの世に一人の人間として生まれて下さったのは、神様ご自身が、罪人である私たちを迎え入れるために、ご自分の家を出て駆け寄って来て下さったということでもある。
*神の喜び
そしてこの話は、罪人である私たちをご自分のもとに迎え入れて下さることを、神様ご自身が心から喜んで下さることを語っている。父は肥えた子牛を屠り、息子の帰還を祝う祝宴を始める。息子がこのように戻って来た、それは父にとって、死んでいた息子が生き返ったような大きな喜びなのである。私たちを捜し出し、見つけ出して下さり、その神様の家で生きようという思いを起させ、そしてそれぞれのところに駆け寄って迎え入れて下さった。そしてそのことを、誰よりも神様ご自身が心から喜び、祝って下さっている。
私たちは告白しよう。詩編23:6、詩編27:4